2026年7月19日日曜日

【第27話】もしこの世に数学が存在しなかったら日本版の会をやろうにも続けようにもかわなかった(4)--大河ドラマ「春の波濤」と日本版--(26.7.20)

以下は、7月12日の対話集会(「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」、311後のゴミ屋敷に化した日本社会を再建するための報告と対話集会)のあと、会場で日本版の会の正会員を申し込まれた元数学の教員のKさん宛てに書いた「対話」、ラストの追伸、その4。
ここでの肝は《
「そりゃそうやろ、そうでなかったらおかしいやんけ」というのが背理法》(森毅)

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           大河ドラマ「春の波濤」ドラマストーリー本

おはようございます。
スミマセン!
眼が覚めたら、あっ、もう1つ、忘れ物!と記憶の底から呼び声が聞こえてきました。これで本当の最後にしますので。

(3)で、数学の精神とは「証明」することであると書きました。その証明の中で、私が最も気に入ったのは(私の幼児のニックネームが天邪鬼だったことから推察されるように)、法律家がだいたい採用する直線的な三段論法なんかではなくて、
グルグルと三段論法の反対を行くような「背理法」(※)でした。その結果、私は法律(著作権)の仕事の中で、意識しないまま、しょっちゅう、「背理法」を使うことになり、それで311後の全戦全敗と正反対の、311前の「全戦全勝」をもたらしました。

(※)皆さんへ:背理法とは数学における証明法のうち,重要なものの一つです。以下、それについての世界大百科事典の解説。

証明すべき命題の仮定の外に,結論の否定をも仮定して推論を行い,矛盾を導くことにより,もとの命題を証明する方法のこと。
〈誤りに帰着させる〉という意味で帰呈(きびゆう)法とも呼ばれる。
具体例として、素数が無限にあることを背理法で証明してみよう。
素数が有限個しかなかったと仮定して,それら全体を p1,p2,……,pn としよう。N=1+p1p2……pn の素因数 q を考えると,q は p1,p2,……,pnのどれかと一致するのだから,右辺は q で割って1余る。これは,q が N の因数であることに反する。それゆえに素数は無限にある。(永田 雅宜。世界大百科事典より)

その典型が、私にとって最初の著作権の裁判「大河ドラマ『春の波濤』」事件でした(私はNHKの末席の代理人)。著作権侵害が争われる場合、シロかクロかではなく、シロでもあり(あるところは似ていない)、クロでもある(あるところは似ている)のが通常です。その結果、白黒入り混じったグレーの事態をどう評価するのか、という「意味」をめぐる争いになりました。その結果、めいめいが好き勝手な理屈を立てて、シロだ、クロだの主張するので、永遠の水掛け論に入ります。私は、その水掛け論にケリをつけたかった。そこで、採用したのが「背理法」でした。
この大河ドラマ『春の波濤』」事件でもそれで決着が付きました。一審審理の最終ラウンド、非公開の説明会の席上、私は「背理法」で原告作品と被告ドラマストーリー(大河ドラマの解説本)とが著作権侵害にならないことを定性的ではなく、定量的に証明しようと、次の説明をやりました。
原告は両作品が著作権侵害が成立すると主張している。もし、この主張が正しいのなら、(被告ドラマストーリーが原告作品をぱくったのだから)両作品に登場する登場人物ごとに、彼らに関する記述の数もおおむね一致するはずである。そこで今、登場人物ごとに彼らに関する記述の数を数えて、その数を一覧表にまとめ、双方の一覧表をグラフにして比較してみる。本来であれば、登場人物ごとのこのグラフは双方ともほぼ一致するはずである。では、結果はどうだろうか。両者のグラフは全く一致せず、おそろしくちぐはぐである‥‥
この時、説明を聞いていた判決文を起案する左陪席の裁判官が、突然「ウッ!」と低くうめいた。彼は、血の気が失せたようになって、我々の説明を聞いていました。どうやら彼は自分の間違いに気がついたようでした。背理法の勝利の瞬間でした。前回期日の進行協議で、裁判所は私たちに負けを宣告し、それを前提に和解協議の提案をしてきていたので、この説明会の瞬間、形勢が逆転したのです(>その詳細)。
 
しかし、この「大河ドラマ『春の波濤』」事件の本丸(本命)はそこではなく、原告作品と大河ドラマの著作権侵害(法律的には翻案権侵害)でした。この問題でも、我々は「ここが似ていない、違う」とさんざん主張し、相手は「いや、ここが似てる、ここも同じだ」とさんざん主張しあい、千日手みたいな水掛け論の応酬が続いたのです。この水掛け論を何とか「背理法」を使って決着をつけられないか、という試行錯誤が続きました。この論点は言語作品(ノンフィクション)と映像作品との対比という異次元同士の対比のため、上に述べた言語作品同士のような単純な対比方法が使えなかったのです。ああでもない、こうでもないと何度も失敗をくり返した末、或る時、私の脳裏に閃いたのはガロアがおこなったコペルニクス的転回の方法でした。つまり、それまで数百年にわたって、五次以上の代数方程式がどうやったら解けるか、その解き方を一生懸命探っていたのを、ガロアはそのアイデアを飛躍させて、解法の方針を大転換したーーそれが、そもそも五次以上の代数方程式が解けるための条件とは何か、について考えを深め、その条件を満たしているかどうかを検討することによって「5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないこと」を証明してみせた、というやり方でした。
これをここでも応用しようと。つまり、それまで、私は、あたかもどうやったら方程式が解けるかのように、どうやったら両作品が似ていないこと(非類似性)を明らかにできるかを必死になって解こうとして壁にぶち当たり、そのどんづまりの果てにふと、ひょっとして、本件は、ガロアのこの方法つまり、そもそもドラマ化が可能な原作の条件とは何なのか、について考えを極め、もしその条件を満たしていない作品であればそれは原作としての資格を欠くのだ、だからそのような場合には「似ている、似ていない」の類似性の比較をやる意味も必要もないと。これしか本件の明快な解決方法はないのではないかと思い至ったのです。

以下がそれについて、当時、文芸学の専門家として意見書を書いてもらっていた文芸評論家の小森陽一氏宛てに書いた「著作権侵害判断のコペルニクス的転回」のコメントです(>その全文)。

最後に一言、私が「物語性」の意味をこのように限定的に考えることができるようになったきっかけを述べます。
 それは、三年前に、たまたま花田清輝の「復興期の精神」のガロアの群論の章を読んだことがきっかけです。
 それまで、私はひたすら、当時の通俗法律書に従い、「原作を主張する作品のオリジナルな部分(物語性)が、ドラマの中に再現されているか」という発想で、原告作品にはどういう「物語性」があるのだろうかと、幾度も幾度も分析を試みました。そ の都度、決まって何か原告作品の「物語性」を掴み損なったような消耗感と徒労感に襲われ、とうとう完全に行き詰まってしまいました。そこで出くわしたのが、花田清輝の「復興期の精神」だったのです、というより、ガロアの群論の発想法だったのです。
つまり、今までの通俗法律書の論法はドラマ化が可能な場合を前提にしてあって、その作品のオリジナルな部分を抽出して、ドラマと較べなさいというものでした。
がしかし、本件はそもそもドラマ化が不可能な場合に当たるのであり、今までの通俗法律書の論法がそのまま通じる訳がない。そこで、ここは、かつてガロアがやった ように、従来の「与えられた方程式を代数的にどうやって解くか」という発想を止め、「代数的に解き得る方程式というものが満たしていなければならない条件とは何か」という風に発想のコペルニクス転回を行なったように、私も、この遡行的方法というべきやり方を取ろうと思ったのです。というより、もうそれしかない!と思ったのです。
それが、「ドラマ化が可能な原作作品が有すべき条件とは一体何か」という切り替えでした。そして、この条件がまさしく「物語性」であったのです。つまり、私が出会った「物語性」というのは、こういった、作品とドラマとの衝突の場で芽生えた代 物だったのです。
 ただ、この体験は私の法律観を一挙に目覚めさせてくれた貴重なもので、それまでは、ある作品の著作物としてのオリジナリティというものを、その作品だけで独立して確定できると能天気に考えていましたが、しかし、この体験以後、このオリジナリティとて、他者との衝突抜きにはその正体は明らかにされないことを確信するに至ったのです。

 そんなことを漠然と考えてきたものですから、先日、小森さんが「物語性」の中身を説明してくれたとき、他者性に言及したので(レベルは全く違うのですが)、ビックリしました。 


長々とスミマセン。何が言いたかったかというと、小森さんへの手紙のラストに書いたように、法律問題の本質は本来、自分自身だけでは決定不可能だ、必ず他者との対立・衝突とその衝突が不可避だ、その他者との調整を行なうのが「背理法」であると。だとしたら、私にとって「背理法」は単に私の気質にピッタリ合っていただけではなくて、もっと深い訳、つまりこれが数ある証明の中でも、本質的な「意味」を帯びているのではないかと思い直すようになったのです。
この背理法の「再発見」は、「311後の日本社会を人権の見地から再建する」という課題に立ち向かう時にも、この背理法が不可欠なのではないかと思うようになったこととリンクしています。
例えば、私はずっと「命、健康、暮らしを最優先にする」ことこそ、原発事故の救済を人権から考える上で本質的なことだと考え、主張してきました。しかし、そこに何かが足りないと感じていた。それが「対話」です。そのことに7.12集会の中で気づいた。他方で、これまで、人権を無視した経済復興を掲げる政府・福島県の政策があり、これと鋭く対立したまま対話もありませんでした。しかし、ここでも対話が可能ではないか、それを可能にする「背理法」を使ってと
気づいたのです
つまり、311後に復興が不可欠である(その一般的な命題を認めよう。その上で)。その場合に、復興の第一歩は「命、健康、暮らしという市民の人権を最優先にする」ことではないだろうか、という問題提起です(スミマセン、荒削りでまだ全く詰めていません)。

そしたら、「背理法」というのはもともと数学における「対話」の方法なんだということに気がつきました。私に「ゲーデルの不完全性定理」を教えてくれた作家の森敦、評論家の柄谷行人、彼らが親しく付き合っていた私の数学の師匠のひとりでもある数学者(>森毅との面会)が森毅で、彼は次のように言っていたことを思い出したからです。

背理法の方がむしろ自然で、三段論法はABCとチェーンでいきますから単純に進んでしまって、あんまり自然だとはぼくは思えないんですよ。「そりゃそうやろ、そうでなかったらおかしいやんけ」というのが背理法だからね(「シンポジウム」編・著 柄谷行人)

その通りだ。もし本気で「対話」に挑戦するのなら「背理法」を活用するしかない、そして、それを最大限活用したのが、対話をしまくったソクラテスだったことも思い出すべきだということに気がつきました。

以上、まとまりのない話で申し訳ありません。とはいえ私にとって、「背理法」とは単に勝つための手っ取り早い手段ではなくて、勝ち負けを超えた、他者との対話の方法であり、それは己の人権のみならず他の全ての人たちの人権をひとしく尊重する「人権の本質」と深くつながっている思想だということであり、それは対話の神様であるソクラテスの「再発見」でもある、という余韻を残した追伸でした。

くり返すと、背理法、対話とは勝つための技術・手段ではなく、人権の本質に迫る哲学・思想である。

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