その1:人権は絵空事、唐人の寝言か?
私自身、法律家になって以来、ずっと人権は絵空事、唐人の寝言だと信じて来た。法律家として、裁判所に書面をいくつも書いたが、その中でタブーだったことは、憲法の人権を書き込むことだった。そんなことをしたら、書面がいっぺんで、絵空事、唐人の寝言の書面に変質してしまい、調和が取れなくなったから。なおかつ、そのように考えている法律家が殆どだったし、今でもそうだと思う。
だから、「政治・政策から人権にシフト」という観点で書かれたブックレット「わたしたちは見ている」も、かつての私や私の周りにいた法律家たちからみると、紛れもなく絵空事、唐人の寝言だ。これがそのまますんなり受け止められることは至難の業。
では、果たして、人権は絵空事、唐人の寝言なのか?
ちがう。
アメリカはここ3ヶ月半のイラン攻撃の末、事実上敗北を喫する戦闘終結の覚書を交わした。2月末の奇襲攻撃で最高指導者を殺害し、体制転覆をもくろんだトランプは世界最強の国の威信に賭けても負けられない筈だったこの戦争に負けてしまった。その敗北の理由について、マスコミがあれこれ騒ぎ立てているが、ひとつ、決定的な理由について、どのマスコミも取り上げないと思うことがあった。それは、アメリカは人権に敗れたのだという事実。ここでいう人権とは戦争法(武力紛争法)と言われるもの。今では、戦争をやるにも人権遵守が求められ、それを守らないと国際法違反で責任追及されるようになった。かつて、第二次大戦中では悪名高い連合軍のドレスデン空爆、東京大空襲をはじめとする日本各都市の空爆によって非戦闘員である一般市民や民家が空爆の対象になった。しかし、今ではそのようなことが戦争法(武力紛争法)によって禁じられている。非戦闘員の命、健康、暮らしという人権が戦争の中でも最低限保障されるようになっている。
しかし、戦争に関する私たちの記憶はいまだに第二次大戦の沖縄戦、日本各地の大規模な空襲のまま、殆ど進化していないのではないか(私自身がそうだ)。
つまり、チェルノブイリ法日本版だけではなく、もっと以前から、実は戦争自身が「政治・政策から人権にシフト」するに至り、大きく変質した。そのため、大量殺戮兵器を保有するアメリカもイスラエルも、イランやガザを第二次大戦のときのように簡単に破壊することが困難になった。
これは人権の力がトランプやネタニヤフのような狂信的政治家がやりたいと思っている行動を阻んでいる。これが、人権がただの絵空事、唐人の寝言ではないことを最も雄弁に示す近時の事実。
尤も、これに対して、「たとえ人権が機能していたとしても、それが悲惨な戦争を廃絶させることにはならず、むしろ人権の名の下に、戦争を容認、存続させることになっている」といった非難、批判が加えられることがある。これはちょうど、チェルノブイリ法日本版に対し、それがむしろ原発を容認し、存続させることになっているという批判とパラレルな関係にある。
確かに、人権法としての戦争法はそれ自体が戦争を廃絶させるものではない。しかし、現実には、トランプやネタニヤフといった狂信的政治家が、たえず色んな口実をつけては戦争を起こす現実的危険性がある以上、その戦争に対して、「非戦闘員の命、健康、暮らしをはじめとする人権保障」が徹底的に守られるようになると、その結果、戦争そのものの「意味」がどんどん変質してきて、今回のアメリカ・イラク戦争のように、そのバカらしさ、不毛さが浮き彫りとなり、二度とこんなくだらない真似は支持しないという人々が増えていき、戦争そのものへの廃絶に向けて、また一歩前進することになる。もしそうならば、そのような前進を可能にする人権法である戦争法は戦争廃絶に向けての漸進法としてとても重要なものだ。
私は日本版の学習会で、ずっと福島原発事故は戦争だと言って来た。にもかかわらず、間抜けなことに、戦争に関する戦争法については何も学習してこなかった。
今回のアメリカの敗北を前に、戦争法について少し学ぶ気持ちになり、それを学ぶ中で、やはり(核)戦争である原発事故についても、戦争法はものすごく参考になるのだと思い直した。
つまり戦争に関する人権法が戦争法だとしたら、原発事故に関する人権法がチェルノブイリ法日本版であり、この2つは似たもの同士だということ。
そこからまた、上に述べたように、戦争法が戦争の未来に与える深い影響は、チェルノブイリ法日本版が原発の存続に及ぼす影響、可能性ともリンクしている。
ここまで書いてきて、改めて分ったことはーーーー
かつて、「戦争に人権を!」とスローガンにアクションを起こした、ナイチンゲールら一握りの人たちの無謀な取り組みが脈々と受け継がれて、今の戦争法の発展につらなった。
その真に偉大な歴史的事実は、ナイチンゲールらにならった「原発事故に人権を!」をスローガンにした、チェルノブイリ法日本版の無謀な取り組みが、たとえ今は唐人の寝言のように思われようとも、それは日本版に参加したSさんのような若者たちに脈々と受け継がれて、やがて大きな幹に成長することを確実に予感させるものだ。
「戦争に人権を!」を掲げて行動を起こしたフローレンス・ナイチンゲール
2026年7月1日水曜日
【第17話】人権についてのつぶやき(1):人権は絵空事、唐人の寝言か?(26.7.1)
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【第20話】人権についてのつぶやき(4):人権の限界はどこにあるのか?(26.7.1)
その4:人権の限界はどこにあるのか? 「人権の起源」について認識を得ることで、世界が何かこれまでとちがって見えてくるような気分になる。しかし、現実はいつも理念では捉えきれないほど豊僥で、いつも新たな課題を私たちに突きつける。その1つが「人権の限界」。 かつて、憲法の教科書(宮沢俊...
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