その4:人権の限界はどこにあるのか?
「人権の起源」について認識を得ることで、世界が何かこれまでとちがって見えてくるような気分になる。しかし、現実はいつも理念では捉えきれないほど豊僥で、いつも新たな課題を私たちに突きつける。その1つが「人権の限界」。
かつて、憲法の教科書(宮沢俊義)で学んだ「人権の限界」の一般論というものは次の通り、至って単純明快なものだった。
1、人権は全ての権利の中で最上位に位置する、国家に先立つ権利である。
2、従って、人権に対抗できるものは国ではなく、唯一、他の者の人権のみである。
3、つまり、人権は人権同士の対立・衝突を調整する必要がある限りで、制限される。
4、その制限とは、人権相互の対立・衝突を実質的平等の見地から合理的に制限することである。
しかし、これは純粋に形式論理的に首尾一貫しているだけのことで、そこには現実の持つダイナミズムは反映していない。壮絶な宗教戦争の対立・構想の果てからひょっこり顔を出した寛容の精神といったダイナミズムがここにはない。それは単につまらないだけでなく、現実を不完全にしか捉えていないのではないか。
‥‥とコメントを残して次へ。
人権の起源として「寛容」に着目したとき、「人権の限界」は「寛容の限界」と言い直すことができる。しからば、「寛容の限界」とは何か?
例えば、表現の自由を寛容の観点から言い直すと、
「権威の座にある人たちの気に食わない意見を発表する自由」
では、こうした寛容は全面的に保障されるべきか。それを問うたのがヘイトスピーチ。
ヘイトスピーチを擁護する人は言う。
寛容を重視するのであれば、ヘイトスピーチにも寛容で臨むべきだ、と。
しかし、自分たちへの寛容を求めるヘイトスピーチを擁護する人たち自身は、ヘイトスピーチで対象にしている人たちに対して極めて非寛容で臨んでいる。
つまり、自分たちが採っている非寛容に基づく表現に対して、寛容な扱いを求めている。それは以下でチョムスキーが指摘した通り、偽善者的であり、そのようなものが果して正当化され得るのか?
イギリスの哲学者のカール・ポパーは言った、
「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」
これをヘイトスピーチに当てはめれば、
「もし社会がヘイトスピーチに無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」
ヘイトスピーチ以上に、ここ40年間、最もショックだったことはインターネットの暗黒化。かつて情報を市民が共有するユートピアとして出発したはずのインターネットはこの40年間で、ニセメール、ニセ情報、ヘイト情報、炎上で溢れかえり、市民を攻撃し、だます輩が日々暗躍するブラックワールドに変質してしまった。この惨憺たる現状もまた、情報共有に対する「無制限の寛容」がもたらした成れの果てだということに今ようやく気づいた。40年前、インターネットによる情報共有がスタートした当初から、もっとこの「無制限の寛容」がもたらす途方もない悪弊に目を向けて、その対策を真剣に講じるべきだったと、自分の無知・愚かさを実感している。
カール・ポパーの「寛容のパラドックス」はヘイトスピーチに限らず、私たち自身の日常の市民生活の中でも、絶えず問われるとても重要な問題。
もし「無制限の人権」が許されないのと同様、「無制限の寛容」も許されないとしたら、「寛容の制限」はどこに見出せるのか。
もし「人権の制限」が「人権相互の対立・衝突を実質的平等の見地から合理的に制限すること」だとしたら、これと同様に、「寛容の制限」もまた、「寛容同士の対立・衝突を実質的平等の見地から合理的に制限すること」といった見地から基礎づけられるのか?
しかもヘイトスピーチのような場合には、寛容と寛容が衝突しているのではなくて、寛容に対して非寛容が衝突している。その場合には、もはや「寛容同士の対立・衝突」とは言えず、本来の「寛容同士の対立・衝突」の調整と比べ、もっとずっと厳しい制限・調整になって当然ではないのか。
その「寛容の制限」の調整原理として、基礎付けのひとつになるかもしれないと思うのが「偽善者」の禁止。
チョムスキーによると、偽善者とは「他の人に当てる物差しを自分にもあてることを拒否する者」と定義される。
その結果、「自分が他の人を攻撃、脅迫、侮辱、中傷誹謗することは寛容の精神 に照らして許されるが、他人が自分に対し同様の行為をすることは許されないと考える」場合には、その人は偽善者ということになる。
チョムスキーはアメリカの外交政策はいつもこの偽善者だったと指摘する。
アメリカが他国におかす犯罪行為(ハメネイ暗殺など)はどんなにひどかろうが、米国にとって存在しない。しかし、同様の他国の犯罪行為(911など)に対しては言語同断、決して容赦しない、と。トランプもこの偽善者の典型。
以上のとおり、人権=寛容は、これまでなかったような強力な力を人々に与えた。それが「万人に保障された」という性格です。この性格により、人々と利益を享有できる人たちとできない人たちに分断するという従来の政治・政策の宿命的な危険性を克服した。とはいえ、現実にはすべての人が無制限に人権を享有できるわけではないため、そこで、すべての人が可能な限り最大限の人権を享受できるように、その「人権の制限」という厄介な難問に否応なしに取り組まざるを得ない。
もしも、この難問を解くのを面倒くさがり、放置するとき、強者の人権が弱者の人権を抑圧する結果となり、仁義なき「弱肉強食」の世界になる。だから、この難問と向き合うほかない。これが最強のカードである人権に課せられた最大の難問。
この難問を首尾よく解くために、私たち市民の総力と智慧を結集して、その解き方に習熟する必要がある。それは一日にしてできることではなく、終わりのないレベルアップのための修練の日々。
くり返しになるが、この難問を正しく解くためには、まず最初に、人権=寛容という基本を認識する必要がある。
しかし、これは意外に難しい。かつての宗教戦争のように、自分たち宗派の教義こそ真理であって正統であり、それ以外の宗派は異端であるとして、改宗か迫害を当然視してきたのでは、人権=寛容は受け入れられる余地がない。ところが、今日でも、こうした偏狭な正統主義に染まった社会運動、市民運動が今なお、根強く存在しているのも事実で(私も東京の、2012年の官邸前アクションで、一部の人たちから、脱被ばくの福島集団疎開裁判に対して異端扱いされた)、このような正統主義の思想に染まった非寛容な市民運動から脱却することが日本版の運動の「最初の一歩」であり、ブックレット「私たちは見ている」の基本理念である「政治・政策から人権にシフト」はそのことを含んでいる。
「寛容のパラドックス」について書かれたカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』(1945年)




