以下は、7月12日の対話集会(「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」、311後のゴミ屋敷に化した日本社会を再建するための報告と対話集会)のあと、会場で日本版の会の正会員を申し込まれた元数学の教員のKさん宛てに書いた「対話」、ラストのその3。
************************
遠山啓(太郎次郎社エディタスより)今まで、zoom会議のため、中座しました。さきほど、一通りのことは書いた積りでしたが、再読して、あと1つ大切なことが抜け落ちていました。
それは、
311後の日本社会に出現した原発事故の救済に関する法律の体系がスッポリ抜けている(専門用語で法の欠缺状態にある)ことを確信をもって認識するためには、権力や権威や既成事実の前にすっかり拝跪し、追随するのではなく、あくまでもみずから自分の頭で考え判断する力を備える必要があります。そして、
権力や権威や既成事実ではなく、自分の頭で考え判断する力を身につける上で最も有益な方法が数学を学ぶことです。なぜなら、数学が分るためには、権力や権威に頼ってもついに分らず、最後は自分の頭で考え理解するほかないものだからです。
それを言ったのが遠山啓です。彼はこう言いました。
「直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。」
なんと! これならどんな貧乏人(のオレ)でも金持ちや政治家たちにも負けないで互角に戦える道があったのだ、それが「証明」という数学的精神。
この意味で、日本版の単純明快な主張が分らない人というのは、数学的精神と無縁の人、権力や権威や既成事実(それは何も日本政府や原子力ムラに限らない、社会運動、市民運動の保守本流の権力・権威も含む)に頼る癖がついてしまい、自分の頭で考え判断する力をすっかり喪失した、思考停止した人です。
もう1つ。
311後の日本社会に出現した原発事故の救済に関する法律の体系がスッポリ抜け落ちた(専門用語で「法の欠缺」状態にある)ということがいかに異常で、その結果、日本社会が人権侵害のゴミ屋敷に放置(ネグレクト)されたにひとしいものですが、そのことを確信をもって認識するためには、当たり前と思っていることにビックリする資質、言ってみれば「裸の王様を嗤う少年」の心を持つ必要があります。
しかし、当たり前と思っていることにビックリする「裸の王様を嗤う少年」の心を持つのは実はなかなか「言うは易き、行い難し」です。この当たり前と思っていることにビックリする資質は身につける必要があるからです。それを身につける上で最も有益な方法が数学を学ぶことです。なぜなら、数学を身につける目的の1つが当たり前と思っていることにビックリする力を身につけることだからです。
先ほどの投稿に書きましたが、小3のときに、教室でトンチをやっていて、或る女の子が出したトンチ
「1+1は?」
に生徒たちがあれこれ答えた末に、彼女がこう言ったのです。
「みんなちがいます。答えは1です。ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1です」
!!(なんと)
その驚きに襲われて以来、私は自分は正しい数学をやっているという確信が持てなくなりました。自分がやっているのは、1+1=2と書けば単にテストで◯をもらえるだけのことではないかという深い疑念に襲わました。
私はこの時、自分が数字の1って何のこと?という素材論(数学という織物になぞられて、その織物を構成している素材って 何なんのかを考えること)の入り口に立っていたのです。
数学でつまづく人(逆に言うと、驚ける人)は、たいてい、数学の素材のところでつまづく(逆に言うと、驚ける)のです。
なぜゼロという数字があるのか(ギリシャの数字でも中国の数字にもゼロはないのに)。
なぜ分数という数があるのか(小数だけでいいのに)。
なぜ、虚数という数があるのか(どうやったら二乗してマイナスの数になるの)。
なぜ素数なんてものがあるのか、
こうした数学の素材の意味が分らないから、その素材を組み合わせて作った織物、洋服を見せられても、何のことか、最後までピンと来ない。逆に言えば、こうした数学の素材の意味が分り、その素材の素晴らしさに驚けたら、その素材を組み合わせて作った織物、洋服の素晴らしさにも間違いなく、驚くことができる。
こういう当たり前のことに驚く力を身につけていたなら、311後の日本社会が人権侵害のゴミ屋敷に化していることに、驚かずにおれないはずです。そのゴミ屋敷に平然としていられるのは、そもそも当たり前のことに驚く「裸の王様を嗤う少年」の心を失っているからではないかと思います。
そして、遠山啓の「新数学勉強法」(ブルーバックス)の微分積分を読んだ時、彼がこう言っていたのに全幅の共感を抱きました。
微分・積分ほど世に意味不明な学問はないと言われ、そこで微分・積分=「分かった積(つも)りになる。微(かす)かに分かる」と悪口を叩かれている。しかし、数学の精神とはまさにその反対をめざすもの、明確に分ることである。
この数学の精神は日本版の精神と一致する。日本版の精神も、311後の日本社会が原発事故の救済に関する法律が穴(欠缺)になっているのを人権の見地から穴埋めする、ただそれだけの単純明快な明確なものだから。
この遠山啓から次のことを教わったーー数学とは、単に『人間の精神活動の根本をなす思考をもっと明晰にするために、もっと意識化するために、もっと掘り下げるために』やるだけではなく、『自分自身がもっと素直になるために、もっと自由になるために、そしてもっと大胆不敵になるために』やるのだと(ついでに森毅曰く『もっと横着になるためにも、やるんや』も教わった)。
同様に、この遠山啓がいう数学の精神と同様、日本版もまた「無用な被ばくをしたくない!」と思っている『私たち自身がもっと素直になるために、もっと自由になるために、そしてもっと大胆不敵になるために』やるのだと思った(ついでに『もっと横着になるためにも、やるんや』)。
以上、くり返しですが、私にとって数学を学ぶとは次のことを意味します。そして、それは日本版を理解することと殆んど同じことです。
1、権力や権威や既成事実ではなく、自分の頭で考え判断する力を身につけること。
2、当たり前と思っていることにビックリする力を身につけること。
3、分かった積(つも)りになる。微(かす)かに分かるのではなく、明確に分ることをめざすもの。
Kさんの参加のおかげで、勝手な「対話」をさせてもらう気持ちになって、これまであちこちに書き散らしていた数学のメモを振り返り、まとめさせて貰いました。そんな貴重な「対話」の機会を与えて頂き、心から感謝です。











