以下は、7月12日の対話集会(「311後の日本社会と心中するのはバカバカしい」、311後のゴミ屋敷に化した日本社会を再建するための報告と対話集会)のあと、会場で日本版の会の正会員を申し込まれた元数学の教員のKさん宛てに書いた「対話」、その1。
これまで日本版の会には数学関係者の人は皆無だった。初めてそのような人が参加したので、思わず、これまで胸のうちにあった思いを吐き出したもの。
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私にとって、数学の関係者の方がこの会に参加して頂き、今まで誰にも言えなかったことが言える気分で、本当に嬉しく思います。
それは、私にとってチェルノブイリ法日本版の会の立ち上げ、存続の本質に関わることでもあり、以下、殆んどの皆さんにとっては私のつぶやきですが、Kさんにはメッセージとして殴り書きを記しました。
昨年3月11日に、敬愛する脚本家橋本忍の郷里近くの兵庫県市川町で学習会(>その報告)をやった時、次の題で話をしました。
「父よ母よーー人権のない世界の住民と人権の世界の住民を分け隔てるものーー( 分断をつなぐ橋――人権そして「生活再建権」の再発見 )」
このパワポ資料は「人権はそこらにころがっているものではなく、我々自身が発見するほかないものである」ことを述べた、私にとってとりわけ大切なものでして、その最後の68頁以下で、次のことを書きました。
―今、市民運動に必要なもの―それは「考え、考え、考え抜くこと。」
こう言ったのは、卓球の名コーチ、マリオ・アミズィッチです。
彼はNHK「奇跡のレッスン」で、子どもたちに、練習するときの心構えとして第1に「考えること」を挙げ、練習が終わった時、「ああ、今日は身体を動かしてクタクタだ」ではなく、「ああ、今日は頭を使って考え抜いて頭がクタクタだ」でなくてはいけないとアドバイス。
いまや、純粋の運動ですら考えることの重要性が自覚されている。
いわんや、より複雑な市民運動においてをや。
私にとって、その市民運動で「ああ、今日も頭を使って考え抜いて頭がクタクタだ」のモデルが数学的な思考を使って考えることでした。なぜなら、数学は私にとって世界を認識する上での根本的なメガネ、そのメガネをかける前とあとでは、二度と同じ生き方ができなくなるほど、頭の中がグチャグチャになるほどの決定的な意味を持ったからです(>小3のそのささやかな体験)
それから四半世紀経って、ようやくその小3の時の謎が解けました。それが、無限の世界は1+1=1が成立することを教えてくれた遠山啓の「無限と連続」でした(>プレゼン資料5頁以下)。この
無限を眺めるメガネを手にしたことにより、35歳のとき、数学基礎論で「ゲーデルの不完全性定理」(※)という超ケッタイナなものが本当にこの世に存在することを知り、その瞬間、我々の文明社会(脳化社会)の宿命的な限界を思い知らされてブルブル驚愕しました。
(※)皆さんへ:この定理はチェコ生れの24歳の数学者クルト・ゲーデルが1930年に数学的に証明した定理で、これによって「いかなる体系もその体系の中では決定不可能な命題が存在する」ことが論理的に証明されました。つまり、体系なるものは現実を離れてそれ自身で自立することが不可能であることが証明された訳です。この定理に対し、オッペンハイマーは「人間の理性一般における限界というものの役割を明らかに示した」と評しました。今、AIがこの問題で喧々諤々の騒ぎの中にいるのだと理解しています。
「ゲーデルの不完全性定理」は数学的な証明にとどまらず、数学以外の様々な分野で、そのビジョンが大きな影響を及ぼしました。第一次世界大戦で、ロシアは社会体制の矛盾が噴出し、このまま戦争継続かそれとも終結かという問題をめぐって決定不可能になりました。その時、レーニンが提示したのは戦争継続でも、また単なる終結でもない、もうひとつの新たな解でした、それが「すべての権力をソヴィエトへ(その上で即時無条件戦争終結)」。つまり従来の解では決定不能な問題を新たな解の中で解き直そうという提示であり、これがロシア市民に受け入れられました。これは「ゲーデルの不完全性定理」的な根本問題に対する当時、最も考え抜かれたひとつの解の提示でした(とはいえ、その社会組織論には重大な欠陥があり、それが後に露呈します)。だから、当時、「3日以上持たない」(ジョン・リード「世界をゆるがした十日間」(岩波文庫)上123頁)と言われた超劣悪な条件下での未熟児のソビエト政権が3日を遥かに超えて70年間、存命し得たのです(とはいえ、70年も存在してよかったとは全然思えませんが)。
これと似た事態が発生したのが311福島原発事故です。
長くなったので、後半は別便(>こちら)で書きます。

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