2024年3月16日土曜日

【第13話】市民運動その可能性の中心(24・3・16)

 これまでの市民運動の中心は市民主導で政治を変えること、政策を実現することにあると考えられてきた。その際、人権が語られるときも、人権は政治、政策を実現するための「手段」でしかなかった。

しかし、それでは根本的にダメなんじゃないか。その反省の中で出てきたのが、人権は市民運動の「手段」ではなく、市民運動の中心そのものではないか。

市民運動 その可能性の中心は人権の実現にある。

2024年2月22日木曜日

【第12話】果してチェルノブイリ法日本版の人権は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか(24.2.22)

 

 【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)でこう書いた。

「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。

このあり方を徹底した一人がドストエフスキー。彼は「作家の日記」の中でこう書いている。

 「私の信仰は懐疑(注:神の存在にたいする懐疑)のるつぼの中で鍛えられた 」

これに対し、戦前、一高の生徒だった丸山真男は手帳にこう書きつけた()。

「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」

この問いは人権と取り組む者にとって、避けて通れない永久の問いかけだ。

「果してチェルノブイリ法日本版の人権は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」

 

 

丸山真男は一高3年生(1933年)のときに逮捕されて取調べを受けた。以下、井口吉男「戦中期・丸山眞男における「自由」と「デモクラシー」(2)64頁より。
彼は押収されたポケット手帳の書き込みについて訊問される。丸山は取調官から,「貴様は君主制を否認しているな」と詰問されるが,その根拠とされたのは,彼がドストエフスキーの『作家の日記』のなかの「私の信仰は懐疑(附注――神の存在にたいする懐疑を指す)のるつぼの中で鍛えられた」という一節を引用しながら,「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」と記した箇所であった。丸山がこの詰問に対して「それは何も日本の天皇を否認する……」といいかけるやいなや,取調べにあたった特高は「この野郎,弁解する気か」といい,彼にビンタを喰わせた。(丸山真男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」『集』第15巻 21-22頁)

【第11話】初期マルクス或いは初期毛沢東の再定義(24.2.22)

 これまでよく聞かれた議論として、

マルクスは、初期マルクスを経て、そこからさらに飛躍、成長して中期、後期マルクスに変貌し、真の社会主義者になった、と。

そこでは、あたかも真のマルクスは初期マルクスからの脱皮、飛躍の結果、獲得されたかのように語られる。その結果、初期マルクスの核心はどうでもよいことにされてしまう。

その語られ方は初期毛沢東も同様だ。そこでは、 初期毛沢東の核心は精々ノスタルジアとして語られるだけで、実際のところどうでもよいものにされている。

しかし、この見方は根本的に間違っている。なぜなら、初期マルクスの核心はそんな簡単に脱皮、飛躍して済むものではなく、彼にとって生涯、維持確保すべき不滅の基盤となるものだから。そして、その正体はーー人権。初期マルクスもまた、政治に対して人権をキーワードに世界を再定義しようとしたのだ。

それは初期毛沢東も変わらない。初期毛沢東が後期にはないほど明るいのは彼が政治と対峙したバリバリの人権活動家だったからだ。

以上は仮説である。しかし、この仮説は徹底的に吟味、検証する価値のある仮説である。

2024年2月7日水曜日

【第10話】58年間の振り返り(3):最高裁判事中村治朗はただの「反動の理論的司令塔」ではない

以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。


この冬休み、中村治朗最高裁判事に対する私の見方がグラグラしたのは、のちの最高裁判事園部逸夫の次の評価を読んだ時です。
中村は「裁判所の法創造機能によって制定法の欠缺を埋めることについてはかなり積極的であった」、と。
        ↑
これこそ、311後の日本の法体系の課題をズバリ言い当てたものではないかと思ったからです。つまり、
福島原発事故の発生により、原発事故の救済に関する法体系が全面的な「法の欠缺」状態にあることが明らかになり、この欠缺を補充する必要に迫られた時、この問題に真正面から立ち向かう必要(すなわち法律の上位規範である国際人権法を使って欠缺の補充を実行する必要)があり、そのことがまさに、法律の解釈における「法創造機能」を発揮する立場なのだという点からも全面的に肯定されると私は考えていたところ、
中村はすでに半世紀前から、この考えに立って、法の解釈を実行していたのだと知ったからです。

そのような「法創造機能」を発揮する立場から法の欠缺の補充をやってのけたのが、中村が調査官時代に担当した昭和51年4月14日の議員定数不均衡訴訟の大法廷判決です。このとき、首席調査官の中村が発明した「事情判決の法理」という理論が大法廷多数意見の採用するところとなり、この法理がのちの同種の訴訟のリーディングケースとなります。この法理の採用については、これによって、国会が最高裁の違憲判決を軽視(スルー)する危険が生まれるという批判が加えられます。しかし、だからといって、公職選挙法第219条をそのまま適用して、違憲判決が下された選挙をあとから無効としたら、それにより国会機能が停止してしまいかねず、政治的混乱は覆うべくもありません。政治的影響力の極めて大きな問題について、「選挙は違憲だが、事情判決の法理により無効とはしない」という判断の手法は、ひとり議員定数不均衡訴訟に限らず、ほかの様々な政治的影響力の極めて大きな問題についても、つまり本裁判においても他山の石とすべき重要な問題だと思います。
そして、なぜ中村がそのアイデアを思いつくことができたか、それは若くして英米法とくにアメリカ法を深く学び、そこで帰納的な大陸法ではなく、経験主義的な英米法の、具体的妥当性を確保した問題解決のための「エクイティ(衡平法)」、つまり英米法でコモン・ローの硬直化に対応するために大法官が与えた個別的な救済が、雑多な法準則の集合体として集積したものを身に付けていたからではないかと思いました。つまり、一般的普遍性と個別具体的な妥当性の両方に足を掛けて、その両方に目配りしながら具体的な解決基準を引き出そうとするスタンスです。

それを遺憾なく発揮したのが、中村が裁判長をつとめた1981年の以下の判決です。もしこのロジックを追出し裁判に適用したら、この仙台高裁判決は破棄される可能性がある、と。 調査官によると、この時、中村はロールズの「正義論」を念頭に置いたかもしれない_、と。
_
 弁論再開をしないで判決をした控訴裁判所の措置が違法であるとされた事例
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/364/053364_hanrei.pdf

また、中村は大阪空港公害訴訟の上告審が係属していた第1小法廷のメンバーで、同じメンバーの団藤重光らと差し止めを認めた2審判決を追認する方向だったのが、大法廷に回されたため差し止めが認められなくなりましたが、中村はこのとき反対意見を書いているのですね(論点が多く、未だ精読していませんが)。

ともあれ、中村が「手続的正義」の理念と「エクイティ(衡平法)」の精神から書き込んだ最高裁判決の遺産を、ちゃんと学んでおきたいと思いました。

彼の「裁判の客観性をめぐって」に書き込まれた中村の直筆
https://static.mercdn.net/item/detail/orig/photos/m64879197445_9.jpg


 

【第9話】58年間の振り返り(2):2人の最高裁判事(横田喜三郎と中村治朗)の評価に対する間逆のコペルニクス的転回(24.1.11)

以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。


これまで、国際法の泰斗横田喜三郎長官を頑固なリベラル派として高く評価し、他方、中村治朗最高裁判事を「全体の奉仕者」論など数々の反動の理論的司令塔のように考えて来ました。
しかし、この冬休み、かれらの行動の詳細を知る中で、それがいかに一面的、表層的な理解(というより正確には誤解)に基づくものか、己の無知を思い知らされました。その結果、この2人に対する評価が間逆になりました。

私が横田喜三郎に強く惹かれたのは、ここ数年のことで、それは子ども脱被ばく裁判や避難者追出し裁判で、原発事故の救済に関する法体系が「法の欠缺」状態にあり、その「欠缺の補充」が必要とされる時、その補充の方法をめぐって、「法の序列論」を導入することが必要となったとき、この序列論を最も論旨明快に展開していたのがハンス・ケルゼンの「純粋法学」であることを、横田喜三郎の『純粋法学論集』 1-2 有斐閣 1976-1977から教わったからでした。
戦前に書かれた、横田の『純粋法学論集』を読んだ時、こんなに論理明快な法律書にお目にかかったことがないと、その原理主義者としての横田に脱帽し、横田の弟子になろうと思いました。また、戦前、満州事変に対して「軍部は国際法違反をしている」と公然と口にしたという、その頑固なリベラリストぶりにも、311後の学者の振舞いと対比した時にも、痛く感銘を受けました。

そして、純粋法学のケルゼンを師とした横田の竹を割ったような論理明快な法律感がその真骨頂を示したのが、憲法学者たちから戦後の人権判決の金字塔と評される1966年の全逓東京中郵事件最高裁判決です(横田が合議を指導し、彼の退官直後に判決言渡しがあった)。学生時代、この判決を読んだ時、血沸き、肉踊るような、なんという論理明快、情熱溢れる文章だろうとビックリしたのは私だけではないでしょう。つまり、この判決に深く驚愕したのは保守政治家、官僚、経営者たちだったと、彼等の危機感、恐怖感はいかばかりだったろうと今にして初めて想像しました。この深刻な危機感、恐怖感が彼らをして、必死の挽回策に駆り立てた。その努力の結実が7年後の全農林警職法事件最高裁判決です。公務員は国民全体の奉仕者であるという「全体の奉仕者」論を全面に出す、文字通り人権抑圧の全面的開き直りの判決でした。そして、この判決がその後の最高裁の方向性(人権保障に過度に慎重、臆病になる)を決定する決め手になりました。
    ↑
私は、戦後の人権裁判の方向性を決めた2つの判決(全逓東京中郵事件最高裁判決・全農林警職法事件最高裁判決)に対し、これまでずっと、単純な評価しかしてきませんでしたーー全逓東京中郵判決は素晴らしいが、全農林警職法判決はひどい、と。
しかし、なぜ、あそこまでど反動の全農林警職法判決が登場したのか、その登場を招いた重要な呼び水を、全逓東京中郵判決が果たしたのではないか、という歴史の弁証法について思いを馳せることは全くしてこなかった。つまり、全逓東京中郵判決は司法の判断として「解き方をまちがえた」のではないか、という問い直しを全くしてこなかった。
その結果、素晴らしい全逓東京中郵判決を葬った最高裁は許せない、劣悪だ、度し難い存在だ、とこき下ろすだけで、そこから何一つ、展望のある取組みのビジョンは引き出せなかった。
これに対し、全逓東京中郵判決は「解き方をまちがえた」のではないか、という問いを投げかけたのが、後の最高裁判事千葉勝美です。
彼は、
憲法学からみた最高裁判所裁判官 70年の軌跡
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7511.html
の冒頭に寄稿を寄せ、大きな政治的混乱期にあった公務員の労働運動(実態は安保反対等の政治運動)に、正面から切り込んでいった横田喜三郎や田中二郎らの全逓東京中郵判決が、その人間的誠実さ、良心は疑う余地がないとしても、そのドラスティックなやり方(大きな政治的混乱期にあった政治問題に司法が正面から乗り出す)の強引さ、強烈さが、その強引さ、強烈さと同じだけの(実際は権力者たちの恐怖心から倍返しの)強引さ、強烈さを帯びた正反対の全農林警職法判決をもたらしたことを指摘していた(ように私には読めた)。

つまり、千葉は、極めて政治的影響の大きい問題を司法が扱おう時には、その判決が政治的混乱をどれくらいもたらすのかについて「政治的深謀」をめぐらせた上で、最小限の政治的混乱に留まるような法律的解決の探求に全力を注ぐべきだと言いたいように思えた。その鮮やかな事例が、反動的な全農林警職法判決のあとに出た、公務員の政治活動の自由を厳しく制限した1974年の猿払事件最高裁判決を、2012年の堀越事件で千葉が裁判長として主導して事実上判例変更をしたことです。この堀越事件で、千葉は「俺は猿払事件最高裁判決を判例変更なんかしていない」とわざわざ注意深く弁明を用意して、保守反動層が猛反発するのを抑え込み、いわば公務員の政治活動の自由の解禁を「保守反動層が眠るように諦める」よう、用意周到にお膳立てしたのです。

これを見た人が、千葉は何という臆病者だ、と評するかもしれない(昨年まで、私もそう思ったひとりでした)。しかし、今は、こういうやり方こそ、お手本にすべきなのだ、と最大限の賛辞を千葉に捧げたい気分です。つまり、極めて政治的影響の大きい問題を司法が扱う場合には、さっそうと人権保障を掲げるような判決は、むしろ倍返しの逆風を生む恐れがあり、却ってマイナスになる危険が大きい。ここで求められることは
「ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させよう」
とする高度の政治的熟慮と法的なテクニックです。

そのような問題意識を最高裁の中で貫こうとしたのが、昨年までず、反動の理論的司令塔だと思ってきた中村治朗です。
これまで、彼の素晴らしさを正当に評価できなかった自分の政治的未熟さを噛み締めているところです。

中村治朗については、別便で。

 

【第8話】58年間の振り返り:法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格(24.1.11)

 以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。

この冬休みは58年間の振り返りをしていまして、
そこで判然と分かったことは、
自分が法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格である、
58年前、人権判決の金字塔と評された全逓東京中郵事件最高裁判決は人権判決として実は失格だった
ことでした。

その振り返りの直接の動機は、先月の子ども脱被ばく裁判の高裁判決で、裁量権問題でも国際人権法でも完全にコケにされた、という経験をしたからで、なぜそんなことになるのか、その総括をせずにおれなかったからでした。
そこから、自分自身がこれまで「政治」とは何かについて、明確な認識をまるっきり持っていなかった問題に気づかされ、そのため、いつまで経っても、政治と法律(厳密には人権)の関係がどうなっているのかが分からなかったことにも気付かされました。
その結果、私は政治問題を裁判で解くことの意味を突き詰めたこともなく、2005年以来、社会政治問題の裁判に参加してきたにも関わらず、ずっとこの問題が解けなかったし、解こうとも思わなかった。
他方で、世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題というものがあります。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。 
x^5 +2x^4 +3x^3 +4x^2 +5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたのですが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきましたた。昨年末に至りようやく、この数学者たちの迷妄の歴史は私に対する教訓と思えるようになったのです。

そこで、この問題の根本は政治問題を裁判で解くことの意味にあり、それについてこれまで漠然と感じていたことを、一度は徹底して問い直さなくてはならないのではないかと思ったのです。

その問い直しの中での試行錯誤の経過は省略しますが、結論として分かったことは、私は自分が法律家としてはなんとかやってきたかもしれないが、こと人権法律家として完全失格だ、ということでした。

まず私が法律家として何とかやってきたかもしれないというのは、自分が徹底した法的三段論法を駆使して紛争解決を引き出す原理主義者として振舞ったからです。それが著作権事件専門の法律家としてやってきたことでした。著作権の紛争に対し、最善と思われる結論を導く解決基準を探求し、それを見つけ出して白か黒かを迫る解決策を提示しました。幸い、それが裁判所に受け入れられることが多かった。それでこのスタイルに大いに自信をつけたのです。
ところが、2005年から遺伝子組み換えイネの実験差止の裁判に参加して以来、社会的問題の紛争にこの原理主義のスタイルで全力でぶつかって来ましたが、一転して、一度も裁判所に受け入れられることがなかった。この原理主義のスタイルに力を入れれば入れるほど、まるで、イソップ物語の「北風と太陽と旅人のマント」のように、裁判官は、かつてのようには決してマントを脱いでくれなかったのです。

私の未熟さは、所詮は、私人間の著作権トラブルにすぎない著作権裁判の解決の流儀(正義の旗を高く掲げ、これを思い切り判決理由として主張する)をそのまま、国政を根底から揺るがす、政治的影響がものすごく大きな事件について、判決次第で政策の方向が180度変更するような、白か黒かの判断を裁判所に求めて何ら怪しまないところにありました。私が提示する一刀両断的な解決策が、このような国策裁判でどれほど相手の裁判官の腰を引かせるか、それについてぜんぜん想像力を働かすことができず、単に「それは弱腰だ」で一蹴するという独り善がりの態度でした。「人を見て法を説く」ことが全く出来ていない、法律家として完全失格でした。

それで、遅まきながら、今度の判決を下す最高裁裁判官の素性を知るべく、この休み中に、以下の本を手に取りました。
憲法学からみた最高裁判所裁判官 70年の軌跡
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7511.html

一歩前へ出る司法 泉徳治元最高裁判事に聞く
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7334.html

裁判と法律学 -- 「最高裁回想録」補遺
https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641125810

その中で分かった事は、最高裁でもまだ闘う方法は十分にあるのだ、という確信でした。
とはいってもそれは逆転勝訴判決を引き出すという意味ではありません。
具体的には、最高裁の中で、我々の主張に心動かされた少数意見を書かせることです。
それが、世論を喚起し、次の判例変更への布石となる1つの足ががりになることです。

くり返すと、その読書の中で、暗黒の最高裁と言われようが、その中でも、例えば中村治朗、藤田宙靖、泉徳治、私の指導担当官だった島田仁郎、堀越事件で猿払事件を変更した千葉勝美などなど、ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させようと努力してきた最高裁裁判官たちが少なからずいたことを知り、深い感銘を受けました。そして、この「ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させよう」という努力の仕方からいかに沢山のことで学ぶものがあるかを知らされ、この学びを、これからの上告理由書の中で活かさなければと思いを新たにした次第です。

2024年2月1日木曜日

【第7話】「人権」の説明の仕方(24.2.1)

 【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)で書いた通り、

「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。

だとしたら、 これを人に伝える伝え方も、この特徴に匹敵するものであることが求められる。つまり、人権は一連のプロセス(運動)の中で初めてその正しい場所が位置付けられるとしたら、人権の説明の仕方は、従来の憲法の教科書に書いてあるような、
これこれの人権はこれこれの沿革を経て、人権宣言でこれこれのように登場した、その内容はこういうもので、この限界をめぐってこのような裁判があった‥‥ような通り一遍の概念の説明では全く足りない。

今、必要なのは、以下のような構成、
(1)、そもそもそのような人権を必要とする文脈(コンテクスト)としてどのような歴史的事実があったのかという現実の提示と、
(2)、その現実が否定されるべきものであるという批判の提示と、
(3)、さらに、その現実と理念に基づく批判との間の葛藤(struggle)、その葛藤の中から人権という新しい命が誕生した、
という正反合の弁証法的な捉え方による説明が不可欠ではないか。

このような語り方をしない限り、人権の生命、息吹は失われてしまい、灰色の理論だけが残ってしまう。我々は憲法の教科書で、死んだ人権の灰色の理論を読ませられているのではないか。

例えば法の下の平等。この人権の大原則は、「何よりもまず封建的身分制度に対するたたかいの原理として」登場。そのことをボーマルシェ『フィガロの結婚』の主人公の言葉を借りれば、次のように語ることができる。

(1)、「貴方は豪勢な殿様というところから、御自分では偉い人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲章、位階、それやこれやで鼻高々と! 
(2)、だが、それほどの宝を獲られるにつけて、貴方はそもそも何をなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか。おまけに、人間としてもねっから平々凡々。
(3)、それにひきかえ、この私のざまは、くそいまいましい!さもしい餓鬼道に埋もれて、ただ生きてゆくだけでも、百年このかた、エスパニヤを統治(おさ)めるぐらいの知恵才覚は絞りつくしたのです。( ボーマルシェ『フィガロの結婚』 第5幕第3場。辰野隆 訳)

また、例えば「宗教の自由」としての「寛容」
世界で最初に人権である「宗教の自由」は、なぜ人権として誕生したのか。
それは人々が信仰の自由を尊重しましょうというので認められるに至ったのではない。それどころか、それとはまさに正反対で、自分の信仰こそ正しい、それ以外の信仰は異端だ、邪道だと、他の宗教に対する激しい排斥、それが宗教戦争となり、凄惨な殺し合いの惨禍をもたらしたことを、人々が猛省した結果、自分が信ずる信仰を他に押し付けてはいけない、他人にはどの信仰を選択する自由があることを尊重しないとアカン、ということになって、「宗教的寛容」の必要性、重要性が自覚されるに至った。それが宗教の自由が世界に認められ誕生した秘密。

そして、このような展開、プロセスは宗教の自由にかぎらず、ほかの人権でも基本的に同様。つまり、
最初に、否定すべき理不尽、不条理な現実が登場する。
そこで、これに対し、この理不尽、不条理な現実を「おかしい!」「人間性にもとる!」という批判の声があがる。
その中で、理不尽、不条理な現実とこれを批判、否定する声との衝突・葛藤の闘いの中から、初めて人権が誕生する。
これが人権誕生の秘密、プロセス。

2024年1月31日水曜日

【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)(24.2.1)

 「人権」が「政治」と異なる本質的特徴の1つは「誰もが承認せざるを得ない」「誰にも反対されない」こと。だが、
この特徴が、そのままでは多分に、単なる「綺麗ごと」として片づけられ、その結果、人々に何のインパクトも与えない、という事態になる。
        ↑
そこで、どうやったら、この特徴が「綺麗ごと」で片づけられず、人々の胸に強いインパクトを与え得るのか。それが「問題」だ。
キング牧師といえども、マンデラといえども、彼らの人種差別否定のアピールが、いつでも人々の心に届くわけではなく、どのような状況で、どのように人々の胸に届けば、これがインパクトを持ち得るか、そのことを絶えず悩み、考え続けてきたと思う。

そのための条件‥‥それは、静的な概念ではなく、次の動的な運動そのもの。
「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。
なおかつ、その否定にあたって、人々に教えを説くのではなく、共有できる願いとして語る、それが人々の共感を呼び覚ます。

        ↑

(自己注釈)少し前、この文をノートに書いたとき、「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の具体的なビジョンが脳裏に焼きついていたように思う。そのせいか、そのビジョンについて何も書き記さなかった。しかし、その結果、あとになって、その時のビジョンが脳裏から消え去ってしまったら、今度はノートに残された上記の文章を読み返しても、これを書き付けた時の生々しい実感は沸いて来なかった。これでは、死んだ犬みたいなもので、リアルな手ごたえが伝わってこない。


【第5話】「政治的無関心」と「人権的関心」との関係(24.2.1)

 丸山真男は「政治学事典」の中で「政治的無関心」の項目を執筆し、そこで、なぜ「政治的無関心」が発生し、促進されたのかについて考察している。

しかし、政治的無関心が増大するのは或る意味で正常な現象ではないのか。なぜなら、それはあくまでも「政治」に対する無関心ではあっても、「人権」に対する無関心ではないから。そして、「政治」の本質が「敵と味方」の権力闘争であれば市民がそれに背を向けたくなるのは無理もないから。これに対し、「人権」の本質は、政治とは異端の、ひとりひとりの迷える市民の苦悩を解決するものであり、その苦悩に直面した市民はそれに背を向ける訳にはいかない。 

半世紀前、なぜ公害問題に火がついたのか、それは「政治」(敵と味方の権力闘争)ではなく、「人権」の問題として捉えられたから。公害では政治闘争のような勝利者はいない、「市民すべて」が環境から命、健康、暮しが守られることにより勝利者になる。

チェルノブイリ法日本版もまた、「政治」(敵と味方の権力闘争)の問題ではなく、「人権」のど真ん中の問題。

 

【第4話】ガボンその可能性の中心(24.2.1)

ガボンのユニークさを、「人権」から再構成できないか。
それは、
農民を「人間」として尊重する、「人間」として扱うことだ。


ガボンの請願書
の文に溢れる「人権」の思想。これはツァーリを戦慄せしむるに十分な思想だ、しかしガボンはそれにどこまで気づいていたのだろうか。

(続く) 


【第3話】世界史の読み替え:政治の観点から世界史を眺めるのではなく、人権の観点から世界史の再構成を試みる(24.1.31)

 世界史的事件とされる例えば、1905年の「血の日曜日」事件(ー>世界史の窓)。この流血事件を、(少なくとも私は)今まで専ら政治的にのみ見てきた。つまり、階級闘争の結果だ、と。言い換えれば、政治の本質は己の主張を実現するために「敵と味方を区別し、味方を増やし、敵に自分の主張を押し付け、有無を言わせず従わせること」であり、この流血事件はこの政治的事件そのものだ、と。

しかし、それは一面的ではないか。多面的に眺め直す必要があるのではないか。なぜなら、この流血事件をそのような政治的事件として捉えていたのはツァーリ(ロシア皇帝)側だったのではないか。対する市民(労働者)のうち、少なくとも指導的立場にあったガボンはそのように見ていなかった。ガボンはツァーリ(ロシア皇帝)と対立・対決する気はなく、だから、友愛の博愛主義的な気持ちで請願行動に出た。そこにあったのは、ツァーリに対してプラウダ(正義)を求め、労働者を人間として扱い、人権を尊重することをお願いするという、ツァーリと労働者の共存を懇願する、非政治的な請願行為だった。だから、そこには敵と味方はなく、非暴力的であり、博愛、人道的であり、非敵対的=共存的だった。
もっとも、こうした博愛、人道的な主張は、たいていは、中産階級の自己満足にとどまり、社会的影響力を発揮するに至らないが、しかしガボンはちがった。彼は自己満足のために行動したのではなく、彼の非政治的なアピールは市民(農民・労働者)の心を捉えた。

しかし、他方のツァーリ(ロシア皇帝)側は、ちがった。彼らはガボンらの非政治的な行動の本質を理解してなかった。これを単に、政治的な振舞いの1つとしてしか捉えず、そこで、ガボンらは敵とみなされ、敵を有無を言わせず従わせるために,発砲も辞さなかった。その結果、非政治的な振舞いをしていたガボンらは不意打ちを食らった。それまでのツァーリに対する信頼がズタズタに引き裂かれ、不信、憤激の炎が燃え広がった。この時もし、ガボンらもツァーリ(ロシア皇帝)側と同様に、自分たちの行動の政治的な影響力を自覚していたなら、ここまで不信、憤激の炎が燃え広がることはなかった。もっと政治的冷静さを保っていたと思われる。 

そして、この政治的冷静さを持っていなかったのはガボンだけでなく、彼と請願の行動を共にした市民(労働者)もそうだった。だから、彼らもまた、ツァーリ側の発砲で、それまで抱いていたツァーリに対する信頼感は吹き飛び、不信、憤激が炎上した。百の説法より1つの行為(発砲)が市民(労働者)の認識を変えた。ツァーリ神話の崩壊という絶大な政治的効果をもたらした。

ここから第一次ロシア革命の政治的激動が始まったと言われる。ところで、この時、もしこの幕を切った発砲行為が、ガボンの請願行動に対してではなく、政治団体が組織する純粋の政治活動に対してだったら、 第一次ロシア革命のような政治的激動は起きなかったのではないか。「血の日曜日」事件がツァーリへの請願という非政治的活動に対して発砲した事件だったからこそ、ロシア社会に深刻な政治的影響をもたらし、第一次ロシア革命につながったのではないか(ただし、だからといって、ガボンの請願行動だけが第一次ロシア革命の必要かつ十分条件だったという意味ではない)。

ところで、ガボンには致命的な足りない点があったーーそれは、己の「人権行為=非政治的行為がいかなる政治的効果をもたらすか」という認識がなかったこと。人権行為という全ての人を巻き込む可能性を持つ非政治的アクションが、社会的な関心、支持を集めた時、それは、原理的に、人々を「敵と味方」に分断する闘争に明け暮れてきた政治的人間の目からみたら異端の人間たちの異端行為のはずである。だから、政治的人間にしてみたら、これは異端との闘いなのだ。そこで、人権活動を行う者は、この異端行為がどれくらい政治的人間に苛立ちを与えてしまうのか、どのような影響とリアクションをもたらすものか、それを冷静に測定してみる必要があったが、ガボンはそれをしなかった。そして、亡命した彼が、亡命先で、もしこの認識に気付き、その中で、人権活動の再発見をしたならば、彼のその後の人生と社会的影響は大きく違っただろう。しかし、まもなく彼は暗殺され、その機会は永遠に失われた。

私たちは、「血の日曜日」事件の再構成から人権活動を再発見することが大切なのではないか。

以上は「ガボンその可能性の中心」の考察の1コマ。
そして、これと同様の観点から、「ガンジーその可能性の中心」「キング牧師その可能性の中心」「マンデラその可能性の中心」と取り組む価値がある。

例えば、マンデラは、カストロと志と理想を共有しながら、カストロは「社会主義革命」による社会主義国家建設に向ったが、マンデラは向わなかった。彼は、アパルトヘイトを撤廃し、民主主義国家建設に向ったが、しかし彼が向ったのは差別禁止をどこまでも推し進めるいわば「民主主義の永久革命」だったのではないか。

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ガポンの請願書

(引用)陛下! 私たち、ペテルブルク市の労働者および種々の身分に属する住民は、私たちの妻や子、よるべなき年老いた親たちともども、プラウダ(正義)と助けを求めて、陛下の御許へやって参りました。私たちは貧しく、圧迫され、無理な労働に苦しめられ、辱められ、人間として認められず、つらい運命をじっと黙って堪え忍ぶ奴隷のような取り扱いをうけています。私たちは堪え忍んできました。しかし、私たちは、ますます、貧乏、無権利状態、無教育のどん底におしやられるばかりで、専制政治と横暴にのどもとをしめつけられ、窒息しそうです。陛下、もう力がつきました。辛抱できるぎりぎりのところまできました。堪え難い苦しみがこれ以上つづくくらいなら死んだ方がましという恐ろしいときが私たちにはきてしまいました。・・・・
 ここに私たちは最後の救いを求めております。あなたの民に助けの手をさしのべるのを拒まないでください。無権利、貧困、無教育の墓場からあなたの民を導き出してください。自分の運命は自分で決める可能性をあなたの民に与えてください。官吏の堪え難い圧迫を解いてください。あなたとあなたの人民の間にある壁を打ちこわしてください。そして、人民があなたとともに国を治めるようにしてください。あなたは、人民に幸福をもたらすためにつかわされたのでしょう。だのに、この幸福を官吏たちが私たちの手からもぎ取り、それは私たちには届きません。・・・・
 国民代表制が必要です。人民自身が自らを助け、自らを統治することが必要です。なぜなら、人民がほんとうに必要としているものは、人民だけが知っているのですから。人民の助けを突き放さず、それを受けて下さい。ただちに、いまロシアの地の代表を、すべての階級、すべての身分から、そして労働者から召集するよう命令して下さい。そこには資本家も、労働者も、官吏も、司祭も、医師も、教師も来させたらよいのです。どんな人間であろうとすべての人に自分の代表をえらばせましょう。誰も選挙権が平等で自由であるようにいたしましょう――そしてそのために、憲法制定会議選挙は普通・秘密・平等投票という条件のもとでおこなわれるよう命じてください。このことが、私たちのもっとも重要なお願いです。・・・・<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.91-98>

 その後に列挙された具体的な請願項目の主なものは、
・政治犯、争議、農民騒動の咎で捕らえられている人々の釈放。・個人の自由と人身の不可侵、言論・出版の自由、集会・宗教的良心の自由の即時宣言。・国費による義務教育。・法の前での平等。・国家と教会の分離。・間接税を廃止し直接累進課税とすること。・国民の意思による戦争の中止。・労働組合の自由。・八時間労働制。・労働の資本に対する闘争の自由(ストライキ権)。・標準労働賃金。・労働者国家保険法案作成への労働者代表の参加。
などなど、現在から見ればあまりにも当然なことばかりであった。 

                         (世界史の窓より)

 

2024年1月9日火曜日

【第2話】なぜ市民運動は人々を分断させるのか。その分断を克服する可能性は人権にある(24.1.10)

 1、なぜ市民運動は人々を分断させるのか。

それは市民運動もまた「政治」の1つの形態だから。
政治の本質は己の主張を実現するために「敵と味方を区別し、味方を増やし、敵を追い込むこと」であり、「有無を言わせず、自分の主張を相手に押し付け、従わせること」であり、「ひとつの椅子をめぐって、どちらが座るかを力づくで争うこと」である。
この本質が市民レベルで行われる市民運動にも反映される。

その結果、政治的色彩が強い市民運動であればあるほど、市民は特定の市民運動に対し、味方につくのか敵側につくのかを仕訳され、色分けされる。それは否応なしに市民を分断に追いやる。つまり、市民運動がもたらす市民の分断は政治の本質が分断を前提にしたものだから。

2、 その分断を克服する可能性は人権にある

では、分断が政治の本質の帰結として導かれるなら、その分断を克服する可能性はないのではないか。
答えは否。可能性はある。
それはどこに?
人権の中に。
なぜ人権の中にあるのか。
人権の本質は政治の本質とは異質の、共存だから。
なぜ共存なのか?
人権は個人の尊厳に由来する権利が最高の価値として最大限認められる。だとしたら、そのような人権を制約できるものは、やはり最高の価値が認められる、その人以外の人権だけである。
つまり、人権は他の人権との対立・衝突を調整するためにのみ制約される。
その結果、他の人権との対立・衝突を調整する以外は人権は最大限認められる。

この意味で、人権の本質は「他の人権との共存」であり、政治の本質である独占、専有、勝ち負けではあり得ない。 

だから、これまで「独占、専有、勝ち負け」といった政治の本質で動かされてきた市民運動がもたらした市民間の分断は、これとは無縁の共存という本質的性質をもつ人権によって、初めて克服する思想的な基盤が与えられる。

この人権の本質たる所以を自覚して、人権を市民運動の中核に置こうというのがチェルノブイリ法日本版の市民運動。

 

【第1話】これまで、市民運動の中で「人権」はどのように位置付けられてきたか(24.1.10)

これまで、「平和」「自由」といったスローガンを掲げた市民運動がいくつもあった。

これを掲げることで、誰も反対できない運動を作り出すことが可能になる。それがこのスローガンを掲げる人たちの主要な動機だった(のではないか)。

他方、「平和」「自由」のスローガンのもとに参加した市民(運動の活動家たち)は、往々にして、めいめいの「勢力拡大」や「主導権確立」といった「下心」「思惑」「野心」を胸に秘めて「共同戦線」(今風にいうと「ネットワーク」)を形成し、表向きは数あわせ、つじつまあわせをしてきた。しかし、ひとたび、彼等の「下心」「思惑」「野心」が衝突し、主導権争いが熾烈になったとき、これらの「共同戦線」は空中分解していった・・・(例えば、原水爆禁止署名運動と、原水協と原水禁の分裂
       ↑
つまり、ここでは、 「平和」「自由」といった「人権」が、旧来型の市民運動の戦術のメニューとして1つ追加されただけで、「人権」が登場したことによって、 旧来型の「市民運動の質」が転換・変貌することではなかった。
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これが日本における「人権」をめぐる市民運動をダメにしていった最大の原因ではないか。
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これに対し、今、「人権」を、これまでの市民運動の核心を変貌させる、一大出来事として再定義、再発見する必要がある。そのようなものとして「人権」を市民運動に再登場させる必要がある。

なぜなら、一方で、人権を手段ではなく、目的として再定義された市民運動は人権の実現だけが、裏も表もない、唯一最大の目的となるから。己の勢力を拡大したいとか主導権を握りたいとかそんなことはどうでもいいことで、ただ単に、人権を実現したいという「下心」「思惑」「野心」はそれ以上でもそれ以下でもないから。 

他方で、人権の本質からして、たとえ人権の実現が政治目的となっても、それは特定の人間を勝たせ、それ以外の人間を負かせるというものではなく、すべての人に人間的な生き方を最大限実現することをめざす、 原理的にも、勝ち負けの政治の彼岸にある脱政治の市民運動を実現するものだから。

言い換えると、政治とは己の主張を実現するために「敵と味方を区別し、味方を増やし、敵を追い込むこと」であり、「有無を言わせず、自分の主張を相手に押し付け、従わせること」であり、「ひとつの椅子をめぐって、どちらが座るかを力づくで争うこと」である。この政治の本質は単に国の政治レベルだけではなく、市民運動の中にも色濃く反映している。

 そのため、市民運動がいくら「平和」「自由」といった人権のスローガンを掲げても、それが己の政治的目的(「勢力拡大」や「主導権確立」)を達成するための「手段」としてしか考えていない場合には、この人権というスローガンは、政治の帰結である勢力争い、権力争いの政争の中に容易に巻き込まれて、埋没していった。

これに対し、人権が単なるお飾りではなく、人権を核とした市民運動が実現できたなら、その市民運動は政治の本質的帰結である勢力争い、権力争いを免れることが可能になる。

私たちは、これまでの「市民運動」の政治まみれの中に置かれた人権を救い出し、再定義して、従来の市民運動とは異質な新しい市民運動をリードするキーワードして人権を再登場させる必要がある。

そして、それを実行してみせているのが、TのTさんではないか。Tさんのやっている市民運動は旧来型の「市民運動の質」が転換・変貌しているのではないか。

【第13話】市民運動その可能性の中心(24・3・16)

 これまでの市民運動の中心は市民主導で政治を変えること、政策を実現することにあると考えられてきた。その際、人権が語られるときも、人権は政治、政策を実現するための「手段」でしかなかった。 しかし、それでは根本的にダメなんじゃないか。その反省の中で出てきたのが、人権は市民運動の「手段...