私はチェルノブイリ法日本版は人権運動だと捉えている。なおかつその人権運動は「環境権」を原発事故に即して具体化したものだと捉えている。
だが、これに対し、環境権や環境問題という捉え方は資本と国家がもたらす矛盾を直視せず、そこから目をそらすものだという批判がある。
↑
確かに、人権運動としての環境権は被害をもたらした資本と国家の政治・政策には深入りしない。あくまでもその政治・政策の結果として生じた「人権侵害」の回復・救済に焦点を当てている。その限りで不徹底と言われたらまさしくその通りである。
その代わり、焦点を当てた「人権侵害」の回復・救済に関する限り、その恒久的回復を果すために、そして二度と同じ人権侵害をくり返さないために、資本と国家の構造にじわりじわりとくさびを打ち込み、その構造の変質を引き起こす。とはいえ、資本と国家の政治・政策に深入りしないから彼らの体質はそう簡単に変わらないために、またしても似たような人権侵害が反復される可能性がある。そのため、それは1回のアクションで一丁あがりとなるものではなく、時間を要する漸進的な永久運動の取組みである。
結論。人権運動としての環境権は被害をもたらした資本と国家の政治・政策には深入りしない。しかし、被害をもたらしたのが資本と国家の政治・政策にあることは明確に認識(=直視)し、その上で、被害の恒久的回復と再発防止のために必要な資本と国家の政治・政策の改善点について直言する。その直視と直言は一度で終わるものではなく、時間を要する漸進的な永久運動の取組みである。
2025年7月14日月曜日
【第15話】ブックレット第2版「311後の市民運動の課題は従来の解き方では解けない」の続きの自問自答(2):人権運動は資本と国家がもたらす矛盾から目をそらすものか(25.7.14)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
【第15話】ブックレット第2版「311後の市民運動の課題は従来の解き方では解けない」の続きの自問自答(2):人権運動は資本と国家がもたらす矛盾から目をそらすものか(25.7.14)
私はチェルノブイリ法日本版は人権運動だと捉えている。なおかつその人権運動は「環境権」を原発事故に即して具体化したものだと捉えている。 だが、これに対し、環境権や環境問題という捉え方は資本と国家がもたらす矛盾を直視せず、そこから目をそらすものだという批判がある。 ...
-
以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。 この冬休みは58年間の振り返りをしていまして、 そこで判然と分かったことは、 自分が法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格である、 58年前、人権判決の金字塔と評された全逓東京中郵事件最高裁判決は人権判決として実...
-
これまでの市民運動の中心は市民主導で政治を変えること、政策を実現することにあると考えられてきた。その際、人権が語られるときも、人権は政治、政策を実現するための「手段」でしかなかった。 しかし、それでは根本的にダメなんじゃないか。その反省の中で出てきたのが、人権は市民運動の「手段...
-
これまで、「平和」「自由」といったスローガンを掲げた市民運動がいくつもあった。 これを掲げることで、誰も反対できない運動を作り出すことが可能になる。それがこのスローガンを掲げる人たちの主要な動機だった(のではないか)。 他方、「平和」「自由」のスローガンのもとに参加した市民(運動...
0 件のコメント:
コメントを投稿