【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)でこう書いた。
「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。
このあり方を徹底した一人がドストエフスキー。彼は「作家の日記」の中でこう書いている。
「私の信仰は懐疑(注:神の存在にたいする懐疑)のるつぼの中で鍛えられた 」
これに対し、戦前、一高の生徒だった丸山真男は手帳にこう書きつけた(※)。
「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」
この問いは人権と取り組む者にとって、避けて通れない永久の問いかけだ。
「果してチェルノブイリ法日本版の人権は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」
(※) 丸山真男は一高3年生(1933年)のときに逮捕されて取調べを受けた。以下、井口吉男「戦中期・丸山眞男における「自由」と「デモクラシー」(2)64頁より。
彼は押収されたポケット手帳の書き込みについて訊問される。丸山は取調官から,「貴様は君主制を否認しているな」と詰問されるが,その根拠とされたのは,彼がドストエフスキーの『作家の日記』のなかの「私の信仰は懐疑(附注――神の存在にたいする懐疑を指す)のるつぼの中で鍛えられた」という一節を引用しながら,「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」と記した箇所であった。丸山がこの詰問に対して「それは何も日本の天皇を否認する……」といいかけるやいなや,取調べにあたった特高は「この野郎,弁解する気か」といい,彼にビンタを喰わせた。(丸山真男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」『集』第15巻 21-22頁)
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