2024年1月9日火曜日

【第1話】これまで、市民運動の中で「人権」はどのように位置付けられてきたか(24.1.10)

これまで、「平和」「自由」といったスローガンを掲げた市民運動がいくつもあった。

これを掲げることで、誰も反対できない運動を作り出すことが可能になる。それがこのスローガンを掲げる人たちの主要な動機だった(のではないか)。

他方、「平和」「自由」のスローガンのもとに参加した市民(運動の活動家たち)は、往々にして、めいめいの「勢力拡大」や「主導権確立」といった「下心」「思惑」「野心」を胸に秘めて「共同戦線」(今風にいうと「ネットワーク」)を形成し、表向きは数あわせ、つじつまあわせをしてきた。しかし、ひとたび、彼等の「下心」「思惑」「野心」が衝突し、主導権争いが熾烈になったとき、これらの「共同戦線」は空中分解していった・・・(例えば、原水爆禁止署名運動と、原水協と原水禁の分裂
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つまり、ここでは、 「平和」「自由」といった「人権」が、旧来型の市民運動の戦術のメニューとして1つ追加されただけで、「人権」が登場したことによって、 旧来型の「市民運動の質」が転換・変貌することではなかった。
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これが日本における「人権」をめぐる市民運動をダメにしていった最大の原因ではないか。
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これに対し、今、「人権」を、これまでの市民運動の核心を変貌させる、一大出来事として再定義、再発見する必要がある。そのようなものとして「人権」を市民運動に再登場させる必要がある。

なぜなら、一方で、人権を手段ではなく、目的として再定義された市民運動は人権の実現だけが、裏も表もない、唯一最大の目的となるから。己の勢力を拡大したいとか主導権を握りたいとかそんなことはどうでもいいことで、ただ単に、人権を実現したいという「下心」「思惑」「野心」はそれ以上でもそれ以下でもないから。 

他方で、人権の本質からして、たとえ人権の実現が政治目的となっても、それは特定の人間を勝たせ、それ以外の人間を負かせるというものではなく、すべての人に人間的な生き方を最大限実現することをめざす、 原理的にも、勝ち負けの政治の彼岸にある脱政治の市民運動を実現するものだから。

言い換えると、政治とは己の主張を実現するために「敵と味方を区別し、味方を増やし、敵を追い込むこと」であり、「有無を言わせず、自分の主張を相手に押し付け、従わせること」であり、「ひとつの椅子をめぐって、どちらが座るかを力づくで争うこと」である。この政治の本質は単に国の政治レベルだけではなく、市民運動の中にも色濃く反映している。

 そのため、市民運動がいくら「平和」「自由」といった人権のスローガンを掲げても、それが己の政治的目的(「勢力拡大」や「主導権確立」)を達成するための「手段」としてしか考えていない場合には、この人権というスローガンは、政治の帰結である勢力争い、権力争いの政争の中に容易に巻き込まれて、埋没していった。

これに対し、人権が単なるお飾りではなく、人権を核とした市民運動が実現できたなら、その市民運動は政治の本質的帰結である勢力争い、権力争いを免れることが可能になる。

私たちは、これまでの「市民運動」の政治まみれの中に置かれた人権を救い出し、再定義して、従来の市民運動とは異質な新しい市民運動をリードするキーワードして人権を再登場させる必要がある。

そして、それを実行してみせているのが、TのTさんではないか。Tさんのやっている市民運動は旧来型の「市民運動の質」が転換・変貌しているのではないか。

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