2024年1月31日水曜日

【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)(24.2.1)

 「人権」が「政治」と異なる本質的特徴の1つは「誰もが承認せざるを得ない」「誰にも反対されない」こと。だが、
この特徴が、そのままでは多分に、単なる「綺麗ごと」として片づけられ、その結果、人々に何のインパクトも与えない、という事態になる。
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そこで、どうやったら、この特徴が「綺麗ごと」で片づけられず、人々の胸に強いインパクトを与え得るのか。それが「問題」だ。
キング牧師といえども、マンデラといえども、彼らの人種差別否定のアピールが、いつでも人々の心に届くわけではなく、どのような状況で、どのように人々の胸に届けば、これがインパクトを持ち得るか、そのことを絶えず悩み、考え続けてきたと思う。

そのための条件‥‥それは、静的な概念ではなく、次の動的な運動そのもの。
「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。
なおかつ、その否定にあたって、人々に教えを説くのではなく、共有できる願いとして語る、それが人々の共感を呼び覚ます。

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(自己注釈)少し前、この文をノートに書いたとき、「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の具体的なビジョンが脳裏に焼きついていたように思う。そのせいか、そのビジョンについて何も書き記さなかった。しかし、その結果、あとになって、その時のビジョンが脳裏から消え去ってしまったら、今度はノートに残された上記の文章を読み返しても、これを書き付けた時の生々しい実感は沸いて来なかった。これでは、死んだ犬みたいなもので、リアルな手ごたえが伝わってこない。


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