【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)で書いた通り、
「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。
だとしたら、 これを人に伝える伝え方も、この特徴に匹敵するものであることが求められる。つまり、人権は一連のプロセス(運動)の中で初めてその正しい場所が位置付けられるとしたら、人権の説明の仕方は、従来の憲法の教科書に書いてあるような、
これこれの人権はこれこれの沿革を経て、人権宣言でこれこれのように登場した、その内容はこういうもので、この限界をめぐってこのような裁判があった‥‥ような通り一遍の概念の説明では全く足りない。
今、必要なのは、以下のような構成、
(1)、そもそもそのような人権を必要とする文脈(コンテクスト)としてどのような歴史的事実があったのかという現実の提示と、
(2)、その現実が否定されるべきものであるという批判の提示と、
(3)、さらに、その現実と理念に基づく批判との間の葛藤(struggle)、その葛藤の中から人権という新しい命が誕生した、
という正反合の弁証法的な捉え方による説明が不可欠ではないか。
このような語り方をしない限り、人権の生命、息吹は失われてしまい、灰色の理論だけが残ってしまう。我々は憲法の教科書で、死んだ人権の灰色の理論を読ませられているのではないか。
例えば法の下の平等。この人権の大原則は、「何よりもまず封建的身分制度に対するたたかいの原理として」登場。そのことをボーマルシェ『フィガロの結婚』の主人公の言葉を借りれば、次のように語ることができる。
(1)、「貴方は豪勢な殿様というところから、御自分では偉い人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲章、位階、それやこれやで鼻高々と!
(2)、だが、それほどの宝を獲られるにつけて、貴方はそもそも何をなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか。おまけに、人間としてもねっから平々凡々。
(3)、それにひきかえ、この私のざまは、くそいまいましい!さもしい餓鬼道に埋もれて、ただ生きてゆくだけでも、百年このかた、エスパニヤを統治(おさ)めるぐらいの知恵才覚は絞りつくしたのです。( ボーマルシェ『フィガロの結婚』 第5幕第3場。辰野隆 訳)
また、例えば「宗教の自由」としての「寛容」
世界で最初に人権である「宗教の自由」は、なぜ人権として誕生したのか。
それは人々が信仰の自由を尊重しましょうというので認められるに至ったのではない。それどころか、それとはまさに正反対で、自分の信仰こそ正しい、それ以外の信仰は異端だ、邪道だと、他の宗教に対する激しい排斥、それが宗教戦争となり、凄惨な殺し合いの惨禍をもたらしたことを、人々が猛省した結果、自分が信ずる信仰を他に押し付けてはいけない、他人にはどの信仰を選択する自由があることを尊重しないとアカン、ということになって、「宗教的寛容」の必要性、重要性が自覚されるに至った。それが宗教の自由が世界に認められ誕生した秘密。
そして、このような展開、プロセスは宗教の自由にかぎらず、ほかの人権でも基本的に同様。つまり、
最初に、否定すべき理不尽、不条理な現実が登場する。
そこで、これに対し、この理不尽、不条理な現実を「おかしい!」「人間性にもとる!」という批判の声があがる。
その中で、理不尽、不条理な現実とこれを批判、否定する声との衝突・葛藤の闘いの中から、初めて人権が誕生する。
これが人権誕生の秘密、プロセス。
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