世界史的事件とされる例えば、1905年の「血の日曜日」事件(ー>世界史の窓)。この流血事件を、(少なくとも私は)今まで専ら政治的にのみ見てきた。つまり、階級闘争の結果だ、と。言い換えれば、政治の本質は己の主張を実現するために「敵と味方を区別し、味方を増やし、敵に自分の主張を押し付け、有無を言わせず従わせること」であり、この流血事件はこの政治的事件そのものだ、と。
しかし、それは一面的ではないか。多面的に眺め直す必要があるのではないか。なぜなら、この流血事件をそのような政治的事件として捉えていたのはツァーリ(ロシア皇帝)側だったのではないか。対する市民(労働者)のうち、少なくとも指導的立場にあったガボンはそのように見ていなかった。ガボンはツァーリ(ロシア皇帝)と対立・対決する気はなく、だから、友愛の博愛主義的な気持ちで請願行動に出た。そこにあったのは、ツァーリに対してプラウダ(正義)を求め、労働者を人間として扱い、人権を尊重することをお願いするという、ツァーリと労働者の共存を懇願する、非政治的な請願行為だった。だから、そこには敵と味方はなく、非暴力的であり、博愛、人道的であり、非敵対的=共存的だった。
もっとも、こうした博愛、人道的な主張は、たいていは、中産階級の自己満足にとどまり、社会的影響力を発揮するに至らないが、しかしガボンはちがった。彼は自己満足のために行動したのではなく、彼の非政治的なアピールは市民(農民・労働者)の心を捉えた。
しかし、他方のツァーリ(ロシア皇帝)側は、ちがった。彼らはガボンらの非政治的な行動の本質を理解してなかった。これを単に、政治的な振舞いの1つとしてしか捉えず、そこで、ガボンらは敵とみなされ、敵を有無を言わせず従わせるために,発砲も辞さなかった。その結果、非政治的な振舞いをしていたガボンらは不意打ちを食らった。それまでのツァーリに対する信頼がズタズタに引き裂かれ、不信、憤激の炎が燃え広がった。この時もし、ガボンらもツァーリ(ロシア皇帝)側と同様に、自分たちの行動の政治的な影響力を自覚していたなら、ここまで不信、憤激の炎が燃え広がることはなかった。もっと政治的冷静さを保っていたと思われる。
そして、この政治的冷静さを持っていなかったのはガボンだけでなく、彼と請願の行動を共にした市民(労働者)もそうだった。だから、彼らもまた、ツァーリ側の発砲で、それまで抱いていたツァーリに対する信頼感は吹き飛び、不信、憤激が炎上した。百の説法より1つの行為(発砲)が市民(労働者)の認識を変えた。ツァーリ神話の崩壊という絶大な政治的効果をもたらした。
ここから第一次ロシア革命の政治的激動が始まったと言われる。ところで、この時、もしこの幕を切った発砲行為が、ガボンの請願行動に対してではなく、政治団体が組織する純粋の政治活動に対してだったら、 第一次ロシア革命のような政治的激動は起きなかったのではないか。「血の日曜日」事件がツァーリへの請願という非政治的活動に対して発砲した事件だったからこそ、ロシア社会に深刻な政治的影響をもたらし、第一次ロシア革命につながったのではないか(ただし、だからといって、ガボンの請願行動だけが第一次ロシア革命の必要かつ十分条件だったという意味ではない)。
ところで、ガボンには致命的な足りない点があったーーそれは、己の「人権行為=非政治的行為がいかなる政治的効果をもたらすか」という認識がなかったこと。人権行為という全ての人を巻き込む可能性を持つ非政治的アクションが、社会的な関心、支持を集めた時、それは、原理的に、人々を「敵と味方」に分断する闘争に明け暮れてきた政治的人間の目からみたら異端の人間たちの異端行為のはずである。だから、政治的人間にしてみたら、これは異端との闘いなのだ。そこで、人権活動を行う者は、この異端行為がどれくらい政治的人間に苛立ちを与えてしまうのか、どのような影響とリアクションをもたらすものか、それを冷静に測定してみる必要があったが、ガボンはそれをしなかった。そして、亡命した彼が、亡命先で、もしこの認識に気付き、その中で、人権活動の再発見をしたならば、彼のその後の人生と社会的影響は大きく違っただろう。しかし、まもなく彼は暗殺され、その機会は永遠に失われた。
私たちは、「血の日曜日」事件の再構成から人権活動を再発見することが大切なのではないか。
以上は「ガボンその可能性の中心」の考察の1コマ。
そして、これと同様の観点から、「ガンジーその可能性の中心」「キング牧師その可能性の中心」「マンデラその可能性の中心」と取り組む価値がある。
例えば、マンデラは、カストロと志と理想を共有しながら、カストロは「社会主義革命」による社会主義国家建設に向ったが、マンデラは向わなかった。彼は、アパルトヘイトを撤廃し、民主主義国家建設に向ったが、しかし彼が向ったのは差別禁止をどこまでも推し進めるいわば「民主主義の永久革命」だったのではないか。
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ガポンの請願書
(引用)陛下! 私たち、ペテルブルク市の労働者および種々の身分に属する住民は、私たちの妻や子、よるべなき年老いた親たちともども、プラウダ(正義)と助けを求めて、陛下の御許へやって参りました。私たちは貧しく、圧迫され、無理な労働に苦しめられ、辱められ、人間として認められず、つらい運命をじっと黙って堪え忍ぶ奴隷のような取り扱いをうけています。私たちは堪え忍んできました。しかし、私たちは、ますます、貧乏、無権利状態、無教育のどん底におしやられるばかりで、専制政治と横暴にのどもとをしめつけられ、窒息しそうです。陛下、もう力がつきました。辛抱できるぎりぎりのところまできました。堪え難い苦しみがこれ以上つづくくらいなら死んだ方がましという恐ろしいときが私たちにはきてしまいました。・・・・
ここに私たちは最後の救いを求めております。あなたの民に助けの手をさしのべるのを拒まないでください。無権利、貧困、無教育の墓場からあなたの民を導き出してください。自分の運命は自分で決める可能性をあなたの民に与えてください。官吏の堪え難い圧迫を解いてください。あなたとあなたの人民の間にある壁を打ちこわしてください。そして、人民があなたとともに国を治めるようにしてください。あなたは、人民に幸福をもたらすためにつかわされたのでしょう。だのに、この幸福を官吏たちが私たちの手からもぎ取り、それは私たちには届きません。・・・・
国民代表制が必要です。人民自身が自らを助け、自らを統治することが必要です。なぜなら、人民がほんとうに必要としているものは、人民だけが知っているのですから。人民の助けを突き放さず、それを受けて下さい。ただちに、いまロシアの地の代表を、すべての階級、すべての身分から、そして労働者から召集するよう命令して下さい。そこには資本家も、労働者も、官吏も、司祭も、医師も、教師も来させたらよいのです。どんな人間であろうとすべての人に自分の代表をえらばせましょう。誰も選挙権が平等で自由であるようにいたしましょう――そしてそのために、憲法制定会議選挙は普通・秘密・平等投票という条件のもとでおこなわれるよう命じてください。このことが、私たちのもっとも重要なお願いです。・・・・<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.91-98>
その後に列挙された具体的な請願項目の主なものは、
・政治犯、争議、農民騒動の咎で捕らえられている人々の釈放。・個人の自由と人身の不可侵、言論・出版の自由、集会・宗教的良心の自由の即時宣言。・国費による義務教育。・法の前での平等。・国家と教会の分離。・間接税を廃止し直接累進課税とすること。・国民の意思による戦争の中止。・労働組合の自由。・八時間労働制。・労働の資本に対する闘争の自由(ストライキ権)。・標準労働賃金。・労働者国家保険法案作成への労働者代表の参加。
などなど、現在から見ればあまりにも当然なことばかりであった。
(世界史の窓より)
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