これまでの市民運動の中心は市民主導で政治を変えること、政策を実現することにあると考えられてきた。その際、人権が語られるときも、人権は政治、政策を実現するための「手段」でしかなかった。
しかし、それでは根本的にダメなんじゃないか。その反省の中で出てきたのが、人権は市民運動の「手段」ではなく、市民運動の中心そのものではないか。
市民運動 その可能性の中心は人権の実現にある。
これまでの市民運動の中心は市民主導で政治を変えること、政策を実現することにあると考えられてきた。その際、人権が語られるときも、人権は政治、政策を実現するための「手段」でしかなかった。
しかし、それでは根本的にダメなんじゃないか。その反省の中で出てきたのが、人権は市民運動の「手段」ではなく、市民運動の中心そのものではないか。
市民運動 その可能性の中心は人権の実現にある。
【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)でこう書いた。
「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。
このあり方を徹底した一人がドストエフスキー。彼は「作家の日記」の中でこう書いている。
「私の信仰は懐疑(注:神の存在にたいする懐疑)のるつぼの中で鍛えられた 」
これに対し、戦前、一高の生徒だった丸山真男は手帳にこう書きつけた(※)。
「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」
この問いは人権と取り組む者にとって、避けて通れない永久の問いかけだ。
「果してチェルノブイリ法日本版の人権は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」
(※) 丸山真男は一高3年生(1933年)のときに逮捕されて取調べを受けた。以下、井口吉男「戦中期・丸山眞男における「自由」と「デモクラシー」(2)64頁より。
彼は押収されたポケット手帳の書き込みについて訊問される。丸山は取調官から,「貴様は君主制を否認しているな」と詰問されるが,その根拠とされたのは,彼がドストエフスキーの『作家の日記』のなかの「私の信仰は懐疑(附注――神の存在にたいする懐疑を指す)のるつぼの中で鍛えられた」という一節を引用しながら,「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」と記した箇所であった。丸山がこの詰問に対して「それは何も日本の天皇を否認する……」といいかけるやいなや,取調べにあたった特高は「この野郎,弁解する気か」といい,彼にビンタを喰わせた。(丸山真男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」『集』第15巻 21-22頁)
これまでよく聞かれた議論として、
マルクスは、初期マルクスを経て、そこからさらに飛躍、成長して中期、後期マルクスに変貌し、真の社会主義者になった、と。
そこでは、あたかも真のマルクスは初期マルクスからの脱皮、飛躍の結果、獲得されたかのように語られる。その結果、初期マルクスの核心はどうでもよいことにされてしまう。
その語られ方は初期毛沢東も同様だ。そこでは、 初期毛沢東の核心は精々ノスタルジアとして語られるだけで、実際のところどうでもよいものにされている。
しかし、この見方は根本的に間違っている。なぜなら、初期マルクスの核心はそんな簡単に脱皮、飛躍して済むものではなく、彼にとって生涯、維持確保すべき不滅の基盤となるものだから。そして、その正体はーー人権。初期マルクスもまた、政治に対して人権をキーワードに世界を再定義しようとしたのだ。
それは初期毛沢東も変わらない。初期毛沢東が後期にはないほど明るいのは彼が政治と対峙したバリバリの人権活動家だったからだ。
以上は仮説である。しかし、この仮説は徹底的に吟味、検証する価値のある仮説である。
以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。
以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。
以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿した一文。
この冬休みは58年間の振り返りをしていまして、
そこで判然と分かったことは、
自分が法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格である、
58年前、人権判決の金字塔と評された全逓東京中郵事件最高裁判決は人権判決として実は失格だった
ことでした。
その振り返りの直接の動機は、先月の子ども脱被ばく裁判の高裁判決で、裁量権問題でも国際人権法でも完全にコケにされた、という経験をしたからで、なぜそんなことになるのか、その総括をせずにおれなかったからでした。
そこから、自分自身がこれまで「政治」とは何かについて、明確な認識をまるっきり持っていなかった問題に気づかされ、そのため、いつまで経っても、政治と法律(厳密には人権)の関係がどうなっているのかが分からなかったことにも気付かされました。
その結果、私は政治問題を裁判で解くことの意味を突き詰めたこともなく、2005年以来、社会政治問題の裁判に参加してきたにも関わらず、ずっとこの問題が解けなかったし、解こうとも思わなかった。
他方で、世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題というものがあります。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。
x^5 +2x^4 +3x^3 +4x^2 +5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたのですが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきましたた。昨年末に至りようやく、この数学者たちの迷妄の歴史は私に対する教訓と思えるようになったのです。
そこで、この問題の根本は政治問題を裁判で解くことの意味にあり、それについてこれまで漠然と感じていたことを、一度は徹底して問い直さなくてはならないのではないかと思ったのです。
その問い直しの中での試行錯誤の経過は省略しますが、結論として分かったことは、私は自分が法律家としてはなんとかやってきたかもしれないが、こと人権法律家として完全失格だ、ということでした。
まず私が法律家として何とかやってきたかもしれないというのは、自分が徹底した法的三段論法を駆使して紛争解決を引き出す原理主義者として振舞ったからです。それが著作権事件専門の法律家としてやってきたことでした。著作権の紛争に対し、最善と思われる結論を導く解決基準を探求し、それを見つけ出して白か黒かを迫る解決策を提示しました。幸い、それが裁判所に受け入れられることが多かった。それでこのスタイルに大いに自信をつけたのです。
ところが、2005年から遺伝子組み換えイネの実験差止の裁判に参加して以来、社会的問題の紛争にこの原理主義のスタイルで全力でぶつかって来ましたが、一転して、一度も裁判所に受け入れられることがなかった。この原理主義のスタイルに力を入れれば入れるほど、まるで、イソップ物語の「北風と太陽と旅人のマント」のように、裁判官は、かつてのようには決してマントを脱いでくれなかったのです。
私の未熟さは、所詮は、私人間の著作権トラブルにすぎない著作権裁判の解決の流儀(正義の旗を高く掲げ、これを思い切り判決理由として主張する)をそのまま、国政を根底から揺るがす、政治的影響がものすごく大きな事件について、判決次第で政策の方向が180度変更するような、白か黒かの判断を裁判所に求めて何ら怪しまないところにありました。私が提示する一刀両断的な解決策が、このような国策裁判でどれほど相手の裁判官の腰を引かせるか、それについてぜんぜん想像力を働かすことができず、単に「それは弱腰だ」で一蹴するという独り善がりの態度でした。「人を見て法を説く」ことが全く出来ていない、法律家として完全失格でした。
それで、遅まきながら、今度の判決を下す最高裁裁判官の素性を知るべく、この休み中に、以下の本を手に取りました。
憲法学からみた最高裁判所裁判官 70年の軌跡
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7511.html
一歩前へ出る司法 泉徳治元最高裁判事に聞く
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7334.html
裁判と法律学 -- 「最高裁回想録」補遺
https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641125810
その中で分かった事は、最高裁でもまだ闘う方法は十分にあるのだ、という確信でした。
とはいってもそれは逆転勝訴判決を引き出すという意味ではありません。
具体的には、最高裁の中で、我々の主張に心動かされた少数意見を書かせることです。
それが、世論を喚起し、次の判例変更への布石となる1つの足ががりになることです。
くり返すと、その読書の中で、暗黒の最高裁と言われようが、その中でも、例えば中村治朗、藤田宙靖、泉徳治、私の指導担当官だった島田仁郎、堀越事件で猿払事件を変更した千葉勝美などなど、ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させようと努力してきた最高裁裁判官たちが少なからずいたことを知り、深い感銘を受けました。そして、この「ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させよう」という努力の仕方からいかに沢山のことで学ぶものがあるかを知らされ、この学びを、これからの上告理由書の中で活かさなければと思いを新たにした次第です。
【第6話】「人権」の両義性(アンビヴァレント)で書いた通り、
「現実の不条理・理不尽」をひっくり返す瞬間の切り札として「人権」が語られるとき、この「否定する力」が人々にインパクトを与える。
だとしたら、 これを人に伝える伝え方も、この特徴に匹敵するものであることが求められる。つまり、人権は一連のプロセス(運動)の中で初めてその正しい場所が位置付けられるとしたら、人権の説明の仕方は、従来の憲法の教科書に書いてあるような、
これこれの人権はこれこれの沿革を経て、人権宣言でこれこれのように登場した、その内容はこういうもので、この限界をめぐってこのような裁判があった‥‥ような通り一遍の概念の説明では全く足りない。
今、必要なのは、以下のような構成、
(1)、そもそもそのような人権を必要とする文脈(コンテクスト)としてどのような歴史的事実があったのかという現実の提示と、
(2)、その現実が否定されるべきものであるという批判の提示と、
(3)、さらに、その現実と理念に基づく批判との間の葛藤(struggle)、その葛藤の中から人権という新しい命が誕生した、
という正反合の弁証法的な捉え方による説明が不可欠ではないか。
このような語り方をしない限り、人権の生命、息吹は失われてしまい、灰色の理論だけが残ってしまう。我々は憲法の教科書で、死んだ人権の灰色の理論を読ませられているのではないか。
例えば法の下の平等。この人権の大原則は、「何よりもまず封建的身分制度に対するたたかいの原理として」登場。そのことをボーマルシェ『フィガロの結婚』の主人公の言葉を借りれば、次のように語ることができる。
(1)、「貴方は豪勢な殿様というところから、御自分では偉い人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲章、位階、それやこれやで鼻高々と!
(2)、だが、それほどの宝を獲られるにつけて、貴方はそもそも何をなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか。おまけに、人間としてもねっから平々凡々。
(3)、それにひきかえ、この私のざまは、くそいまいましい!さもしい餓鬼道に埋もれて、ただ生きてゆくだけでも、百年このかた、エスパニヤを統治(おさ)めるぐらいの知恵才覚は絞りつくしたのです。( ボーマルシェ『フィガロの結婚』 第5幕第3場。辰野隆 訳)
また、例えば「宗教の自由」としての「寛容」
世界で最初に人権である「宗教の自由」は、なぜ人権として誕生したのか。
それは人々が信仰の自由を尊重しましょうというので認められるに至ったのではない。それどころか、それとはまさに正反対で、自分の信仰こそ正しい、それ以外の信仰は異端だ、邪道だと、他の宗教に対する激しい排斥、それが宗教戦争となり、凄惨な殺し合いの惨禍をもたらしたことを、人々が猛省した結果、自分が信ずる信仰を他に押し付けてはいけない、他人にはどの信仰を選択する自由があることを尊重しないとアカン、ということになって、「宗教的寛容」の必要性、重要性が自覚されるに至った。それが宗教の自由が世界に認められ誕生した秘密。
そして、このような展開、プロセスは宗教の自由にかぎらず、ほかの人権でも基本的に同様。つまり、
最初に、否定すべき理不尽、不条理な現実が登場する。
そこで、これに対し、この理不尽、不条理な現実を「おかしい!」「人間性にもとる!」という批判の声があがる。
その中で、理不尽、不条理な現実とこれを批判、否定する声との衝突・葛藤の闘いの中から、初めて人権が誕生する。
これが人権誕生の秘密、プロセス。
これまでの市民運動の中心は市民主導で政治を変えること、政策を実現することにあると考えられてきた。その際、人権が語られるときも、人権は政治、政策を実現するための「手段」でしかなかった。 しかし、それでは根本的にダメなんじゃないか。その反省の中で出てきたのが、人権は市民運動の「手段...