2025年7月14日月曜日

【第15話】ブックレット第2版「311後の市民運動の課題は従来の解き方では解けない」の続きの自問自答(2):人権運動は資本と国家がもたらす矛盾から目をそらすものか(25.7.14)

 私はチェルノブイリ法日本版は人権運動だと捉えている。なおかつその人権運動は「環境権」を原発事故に即して具体化したものだと捉えている。
だが、これに対し、環境権や環境問題という捉え方は資本と国家がもたらす矛盾を直視せず、そこから目をそらすものだという批判がある。
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確かに、人権運動としての環境権は被害をもたらした資本と国家の政治・政策には深入りしない。あくまでもその政治・政策の結果として生じた「人権侵害」の回復・救済に焦点を当てている。その限りで不徹底と言われたらまさしくその通りである。
その代わり、焦点を当てた「人権侵害」の回復・救済に関する限り、その恒久的回復を果すために、そして二度と同じ人権侵害をくり返さないために、資本と国家の構造にじわりじわりとくさびを打ち込み、その構造の変質を引き起こす。とはいえ、資本と国家の政治・政策に深入りしないから彼らの体質はそう簡単に変わらないために、またしても似たような人権侵害が反復される可能性がある。そのため、それは1回のアクションで一丁あがりとなるものではなく、時間を要する漸進的な永久運動の取組みである。

結論。人権運動としての環境権は被害をもたらした資本と国家の政治・政策には深入りしない。しかし、被害をもたらしたのが資本と国家の政治・政策にあることは明確に認識(=直視)し、その上で、被害の恒久的回復と再発防止のために必要な資本と国家の政治・政策の改善点について直言する。その直視と直言は一度で終わるものではなく、時間を要する漸進的な永久運動の取組みである。

【第14話】ブックレット第2版「311後の市民運動の課題は従来の解き方では解けない」の続きの自問自答(1):人権運動の力はどこにあるのか(25.7.14)

「311後の市民運動の課題は従来の解き方では解けない」というお題について、ブックレット「わたしたちは見ている」の中で、チェルノブイリ法日本版の運動について「政治・政策運動から人権運動へのシフト」という解き方を示した(>こちら)。
その意味は人権運動の可能性を、脱「政治・政策運動」の中に見てきたからだ。それは「政治・政策運動」の本質が「人々を敵と味方に仕分け」し、人々を分断させるからであり、そのような仕分けと分断を乗り越える必要があり、それを乗り越えるカギは人々を分断しない「人権運動」の中にあると思ったからだ。

その認識は正しいとして、次の問題は「311後の市民運動の課題はこの人権運動の解き方だけで解けるのか」、つまり、果してその脱「仕分け」・脱「分断」だけで、自動的に人権運動が大きな力を持ち得るのかどうかにある。この点について、実はまだ問い詰めて来なかった。
そこで、改めて、人権運動の力はどこにあるのか、どこに由来するのか、それについて以下、この間、考えてきたことを記す。
1、人権運動の第1の特質は倫理道徳的運動の点にある。それは命、健康、暮らしといった誰も反対しない、反対できない普遍的な価値の擁護を訴えるもの。
2、だが、倫理道徳的運動ゆえに人々の分断をもたらさないとしても、その理念の力だけから当然に、この運動が大きな力を持ち得るかどうか、それを再吟味する必要がある。
過去に、ガンジーやキング牧師がやった「非暴力抵抗運動」もまた倫理道徳的運動だった。だが、それが大きな力を持ち成功したのは同時にそれが「不買運動」(塩の行進バス・ボイコット運動)を伴ったからだ。つまり、経済的交換の関係の中で市民が主体性を持ち得る局面である市民が「消費者」の立場に立った時()に、そこで例えば「不買運動」のように市民が主体性を発揮したとき、それが経済的、社会的に大きな打撃・影響をもたらした。この成功例の理由は解明する価値がある。

つまり、人権運動が「力」を持つためには、
第1に「正義(理念)の力」そして「愛(無償贈与)の力」。その内容が普遍的な価値を帯びていて、脱「仕分け」脱「分断」により多くの人々の共感・賛同が得られること(道徳的な普遍性)。それに加えて、
第2に「消費者(経済的交換関係)の力」。政治と経済に対して現実的な打撃を与えうる「不買運動」のようなアクションを構想しこれを実行すること。
それは市民が経済的交換の関係の中で主体性を持ち得る局面=「消費者」の立場に立って、その主体性を発揮するアクションに出るときだ。
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では、チェルノブイリ法日本版の運動が大きな力を得るために上記の第2について、いかなるアクションが構想できるか。
つまり、チェルノブイリ法日本版に関わる市民は「消費者」の立場に立って、その主体性を発揮するどのようなアクションが考えられるか。
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その1つが協同組合運動。ただし、ここでは市民が「消費者」の立場に立って主体性を発揮する協同組合=消費協同組合を指す。
例えば、原発を稼動している電力会社に対し、関係自治体の住民は原発事故が発生した場合の救済に協力することを要求し(その具体的な内容は日本版に基づいて最も切実な要求から順次詰めていく必要がある)、それが受け入れられない場合には電気供給の「不買運動(パルシステムなど別の会社に切り替える)」を起こすことを予告し、実行に移す。すなわち、ここでは電気供給という消費者のネットワークを作って不買運動を興して要求を飲ませる(←現実に原発事故が発生した場合に救済に要した費用の最終的な負担者は電力会社なのだから、彼らを巻き込む運動は決して日本版からの逸脱ではない)。

他方、電力会社ではなく、国や自治体に対する関係で、「不買運動」で市民が「消費者」として主体性を発揮し得るのに匹敵するだけの局面はどのような場面か。例えば「主権者」として主体性を発揮し得る局面はどんな場面があるか。選挙の投票。世論調査。デモ。署名。街宣。ブログなどのSNS‥‥

 
)経済的交換の関係の中で市民が主体性を持ち得るのは市民が「消費者」の立場に立った時である。この認識の重要性を訴えたのが雑誌「群像」掲載の柄谷行人「トランスクリティーク」最終回。
そこで彼は言うーー経済的交換の関係の中で、貨幣と商品が交換されるとき、その関係は対称的ではなく(非対称性)、貨幣を持った資本家は労働力商品を売る労働者に対し、主体性を発揮する能動的な地位に立つ。なぜなら、貨幣を持つ者はいつでもどこでもいかなる商品と直接的に交換できる直接交換可能性の権利を持っているから。この「直接交換可能性の権利」こそ貨幣が持つ力である。
だが、資本家も、この経済的交換の関係貨幣―商品―貨幣(M-C-M’の中で一度だけ非主体的で受動的な立場に立たされる。それが彼らが生産した商品を売る時である。このとき、資本家の前に登場するのは消費者つまり広義の労働者である。今度はこの貨幣を持った消費者が商品を売る資本家に対し、主体性を発揮する能動的な地位に立つ。選挙当日だけ主権者になる市民と同様、この瞬間だけ「消費者は王様」になる。他方、資本家は利潤を得るためには、どうしてもこの場面を避けて通ることができない。どんな市民であっても誰もが消費者として主体性を発揮し能動的になれるこの瞬間、ここがロードスだ、ここで跳べ!とこの瞬間を市民運動の中に導入し成功したのがガンジーやキング牧師たちの「不買運動」だった。しかも彼らの「不買運動」は単純な資本家との関係ではなく、国家との関係だった。その意味で、国家や自治体が相手のチェルノブイリ法日本版の参考になる。
あとは、このアイデアをチェルノブイリ法日本版の運動の中でどう具体化するかだ。

 

【第15話】ブックレット第2版「311後の市民運動の課題は従来の解き方では解けない」の続きの自問自答(2):人権運動は資本と国家がもたらす矛盾から目をそらすものか(25.7.14)

 私はチェルノブイリ法日本版は人権運動だと捉えている。なおかつその人権運動は「環境権」を原発事故に即して具体化したものだと捉えている。 だが、これに対し、環境権や環境問題という捉え方は資本と国家がもたらす矛盾を直視せず、そこから目をそらすものだという批判がある。         ...